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森井大一

登録日:
2024-12-24
最終更新日:
2025-08-18
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  • 「リバタリアニズムへの共感の先にリバタリアニズムの超克を望む」

    筆者は、医師として、社会保障の一角たる医療を生業とする者であり、その意味で共同体に寄りかかって生きている者だ。そんな自己の実存を横に置いたとしても、医療というサービスの給付を社会化せずに完全に市場にゆだねることには怖さがある。医療というサービスが、その受益者の支払い能力に応じて消費されるコモディティ(“市場で取り引きされる売り物”という程度の意味)になってしまうことが、将来にわたって起こらないように願っている。

    また、社会保障、特に医療が、solidarity(社会連帯と訳すべき?)の手段かつ目的であると、医療の現場で働いていて感じない日はない。

    しかし、近時、「手取りを増やす」という政治スローガンが脚光を浴び、「政府が俺の財布に手を突っ込むことは許せん!」という感覚が、アルバイトで月に数万円を稼ぐにすぎない学生にまで共有されている。このような現実を見るにつけ、筆者は、もはや共同体を所与とする議論だけでは無理なんじゃないかと思うようになった。

    これは、医療政策ないし社会保障の議論に末席ながら参加してきた者としての反省だが、多くの人が社会保障の給付側面(e.g. 医療サービス)の重要性を理解しないのは、「その人が馬鹿だから」「ないしは、まだ若くて健康の心配がないから」「または、全体像がわかっていないから」と上から目線で考えてしまっていた。

    このような驕りは、もはや通用しない。政府による徴収(税金であれ社会保険料であれ)に対する憎悪の根源には、(おそらく数十年に渡って醸成された)政府への不信がある。「政府は俺たちから吸い上げたものを、仲間内で山わけしているだけなのではないか?」、という政府不信を甘く見るべきではない。米国で象徴的に起こっていること(そして、日本でも既にほぼ可視化されたこと)は、そういう政府不信が行き着くところまで行き着いたものというべきだろう。

    これは、ノージックが勤労収入に対する課税を国家による強制労働と見なし、中央による分配(central distribution)の主体を「政府(government)」と呼ぶのを避けて、わざわざ「どこかの誰か(someone)」と表現したことに、呼応する感覚である。

    「俺は負担なんて嫌だよ」という(きっと若い)人は、筆者のような、共同体に依存した存在に対して、「お前もノージックが言っていたsomeoneの1人だな」と思うに違いない。

    それでもなお、筆者は憲法第25条の定める生存権を実態的な権利としたいし、この条文を空文化するような、負担面ばかりを強調する近年流行りの社会保障論に抗う者である。その意味で、最近湧いて出てきたコスプレ・リバタリアンにも、そしてノージックのような生粋のリバタリアンにも与する者ではない。

    しかし、そこでどうやって、(特に)若い人と一緒に共同体を思い出せばよいのだろうか。医療の社会化の意義を問うた思想家にラリー・R・チャーチルがおり、チャーチルはロールズ(ないしアダム・スミスのシンパシー)を持ち出す。しかし、筆者は、正直なところ、これはもう無理なんじゃないかという気がしている。

    むしろ、「政府と言ったって、それって結局someoneだよね」というノージックの懐疑への共感から始めなければならないのではないか。リバタリアニズムの超克をリバタリアニズムへの共感から始める、というこの逆説が重要なのだ。このテーマは次稿に続く。

    森井大一(日本医師会総合政策研究機構主席研究員)[リバタリアン][社会保障

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