“医療を社会化する”とは、医療サービスの提供に政府が責任を持つということだ。「社会化」と一口に言っても様々な形がありうる。①医療機関のすべて、あるいは大部分を国有化(あるいは公営化)する形、②税を主たる財源とする予算事業とする形、③社会保険で運営する形などだ。②や③の場合、必ずしも医療サービスの提供手段が国有化されている必要はない。提供手段が政府とは独立した民間資本であっても、“社会化された医療”となりうる。
逆に、医療が社会化されていないとはどういうことか。社会化されていなければ、医療サービスは、他のサービスや財と同様に、市場を介して供給されることになる。個人個人が自らの判断で、医療機関を受診し、医療サービスを求めることは、社会化された場合と変わらない。医療サービスの提供者も、自らのサービスに対して自由に価格を設定し、患者は、そのサービスの内容と価格に同意できれば、対価を支払うのと引き換えに医療サービスを受けることができる。医療が社会化されていない、つまり、医療を市場にゆだねるというのは、そういうことだ。
医療が社会化されていない社会では、自分の疾病リスクを管理するためには、民間保険に入るしかない。米国では、2010年のオバマ政権下で、民間の医療保険に加入することを義務とするindividual mandateが法制化された(Affordable Care Act)。日本でも、自動車を運転するにあたって何らかの損害賠償保険に加入することが義務化されているが、オバマ政権下のindividual mandateは、日本の自賠責保険と同じ構造の制度だ。民間の医療保険への加入義務は、あくまで医療サービスの提供自体が市場にゆだねられているという点で、医療の社会化とは言えない。米国について補うなら、第Ⅰ期トランプ政権下に、individual mandateの違反(強制加入にもかかわらず無保険を選択した場合)に対する罰金が連邦レベルでは廃止された。連邦法による罰金の廃止に対して、individual mandateの実効性を維持するために、州レベルでの罰金を課す州もある。
民主社会では、国民の多数によって社会の在り方が決まる。世界中のどんな社会も、その時々に様々なsocial choiceに向き合う。もちろん、医療もそのようなsocial choiceにさらされる。医療についての1つ目の選択は、医療を社会化するかどうかである。その上で、社会化するにせよ、しないにせよ、どのように社会化するのか、あるいはどのように社会化しないのか、という次の選択が立ち現れる。
リバタリアニズム・新自由主義というアプローチは、この1つ目のsocial choiceについて、「医療を社会化しないこと」を選択する。
手取りを増やすという政治スローガンがもてはやされている昨今だが、この政治スローガンを掲げる者が答えなければならない問がある。それは、負担の反対側の給付として、医療を社会化するという1961年の国民皆保険化以降の枠組みを放棄するのかどうかである。「負担は下げる」、そして「給付も下げる」と言うのなら、それはリバタリアニズムという強力な政治哲学に裏打ちされた確固とした1つの政策と評価できる(その賛否は別論であるとして)。
もし、負担下げを言いつつ、医療の社会化を維持すると言うのなら、その主張者はもはやリバタリアンではない。よく言ってリバタリアンの皮をかぶった別の何か、ということになる。
医療を社会化するのか、しないのか、我々は、この根本的な問をあまりに長い間放置しすぎたのではあるまいか。医療に関わるいかなるsocial choiceも、結局のところ、この問に答えるところからやり直すことになる。そうであるなら、この問を国民全体で考えなければならない。民主社会では、social choiceは主権者たる国民自身の選択だからだ。
森井大一(日本医師会総合政策研究機構主席研究員)[social choice]
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