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高木兼寛(2)[連載小説「群星光芒」304]

No.4894 (2018年02月10日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2018-02-10

最終更新日: 2018-02-06

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すぐそばで傷病兵の手当てをしていた大村藩の本川自哲軍医長が銃弾摘出術に難渋する高木兼寛を見かねたらしい。

「わしが手伝ってやろう」とやってきて先ず太ももの根元に止血帯を巻きつけた。ついで神経や血管を傷つけぬよう気を配りながら、たちまち大腿に埋まった1発の銃弾を摘出した。皮下の止血も素早かった。

「さ、これでよかろう。あとは包帯を巻いておけ」

そう告げると、本川軍医長は革草鞋をキュッキュッと鳴らしてその場を去った。

己れの技の未熟さを痛感させられた兼寛は、軍医長の後ろ姿に深く頭をさげた。

イギリス軍医ウィリアム・ウィリスの大腿骨切断手術を見学したのは会津城内に設けられた臨時軍陣病院の手術場だった。

既に城は陥落して会津藩は降伏しており、病室には激戦で傷ついたおびただしい負傷兵が呻いていた。

ウィリスは広島藩医の柴岡宗伯に案内されて手術場に現れた。新政府の要請により会津まで巡回診療にやってきたのだ。

兼寛はウィリスの6尺を優に超える巨体に圧倒され、彼の所持する最新の手術器具に目を丸くした。

なによりも忝いと思ったのは、ウィリスがその場に集まった各藩の藩医たちに大腿骨切断手術を説明しながら施術したことだった。

最初に甘い匂いのするクロロホルムの蒸気を嗅がせると患者は深い眠りに落ちた。

「この全身麻酔薬は1847年にイギリスのシンプソン博士が世界で初めて吸入麻酔に用い、ビクトリア女王の無痛分娩に使用したものである」

ウィリスは誇らしげにそう言い、助手の柴岡宗伯が通訳をした。

ウィリスは患者の太ももの付け根をゴム紐で括って血止めをしたあと、メスをふるって筋肉をわけ、鋸を用いていとも容易に大腿骨を切断した。

ほかにもウィリスは、負傷兵たちの手足に埋まった弾丸や骨片を新式のピンセットやゴム製の弾丸抜きを使って取り出した。

創傷には過マンガン酸カリで消毒を行い、骨折した手足に鉄製のスプリントを用いて固定した。

ウィリスの戦陣医療を目の当たりにした兼寛は強い衝撃を受け、「われわれの治療法は児戯に等しいものだった。これからは西洋医学の精髄を学びとらねば」と奮い立った。

高木兼寛は嘉永2(1849)年9月15日、父喜助と母園の長男として日向国東諸県郡穆佐村(宮崎市高岡町)で生まれた。父は高木兼次と名乗る鹿児島藩の郷侍だったが、日ごろは農業に明け暮れ、玄米に稗・粟混じりの麦飯を口にする倹しい暮らしを営んでいた。

兼寛は初名を藤四郎といい、近在の塾で漢学を学んだ。10歳のとき在郷の剣術家阿万孫兵衛に示現流剣術を教えられ、15歳で元服して兼寛と名乗った。

地元には黒木了輔と称する医師が開業していて、人々に敬愛されていた。

兼寛は医家のみに許される白足袋姿の黒木医師にあこがれ、19歳のとき鹿児島藩医の石神良策が開いた蘭方医塾に入門した。

慶応4(1868)年4月、戊辰戦争がはじまると鹿児島藩は医術の心得のある者を従軍医師に採用した。怪我の治療に日の浅い兼寛だったが、師の石神良策に「蘭方外科は経験せねば上手くならん」と勧められ、東北征討軍に加わることになった。

鹿児島藩の首脳たちは北越や東北の戦線でウィリスが示した麻酔、消毒、外科手術などのイギリス医学に刺激された。

これまで鹿児島藩医といえば大半が漢方医であり、医師を養成する藩立開成学校も漢方が主体だった。

しかし、藩内に西洋医学を学ぶ気運が高まり、藩主も「新しい時代の医療体制を築くには洋方医の育成が望ましい」との意向を示した。こうして藩立開成学校に洋方医学院を設けることが決まった。

明治元(1868)年11月、鹿児島藩立開成学校病院が設立されると兼寛はまちかまえたように同校の洋方医学院に入学した。

戊辰戦争が終結すると新政府は英国公使館と交渉してウィリスを藤堂和泉守の屋敷跡に開いた大病院に雇う契約を結んだ。

お雇い期間は1カ年、月俸は800ドルだった。

ウィリスが大病院で診療を開始したころ、新政府の医学校取調御用掛の相良知安と岩佐 純が学校判事に任命された。

彼らの熱心なはたらきと新政府顧問のアメリカ人フルベッキの建言などにより太政官はドイツ医学採用を決定した。

これを知った鹿児島藩では戦陣医療に秀でたウィリスを開成学校病院に招こうとの動きが強まった。そのころ鹿児島藩医の石神良策は江戸へ往き大病院のウィリスの許ではたらいていた。

「戊辰の役でウィリス医師が示した手術、麻酔、消毒などイギリスの戦陣医療はわが藩にとって欠かすことができません。ぜひともウィリス医師を鹿児島に招いてください」

石神はそういって藩の実力者である大久保利通と西郷隆盛にはたらきかけ、ウィリスを招聘する話がまとまった。

大病院を辞任した石神は英国公使館におもむいてウィリスを鹿児島に招く交渉に当たった。ウィリスも鹿児島で教鞭をとることに同意したので月俸900ドル、お雇い期間4年間の契約が成立した。太政大臣三条実美の月俸が800円、大学東校のお雇い軍医ミュルレルが600円、軍医ホフマンはその半額だから、破格の待遇だった。

職を辞したウィリスは明治2(1870)年12月に石神良策に案内されて東京を発った。

一方、鹿児島藩では開成学校から洋方医学院を分離して旧浄光明寺(現在の南洲神社)跡に移した。ついで医学院を小川町の都城屋敷跡に移して鹿児島医学校と改称する。その医学校のお雇い教師にウィリスが着任したのは明治3(1870)年1月だった。

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