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浅田宗伯(15) [連載小説「群星光芒」252]

No.4841 (2017年02月04日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2017-02-05

最終更新日: 2017-01-31

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  • 明治15(1882)年2月18日、わしは全国の漢方医1613名の惣代として新任の山田顕義内務卿に宛てて上願書を提出した。
    そこには「全国に正規の医師が普及するまで一時的に漢方医の開業権を認めて頂きたい」との要望を記した。
    内務省はこれに対して返事をせず、ひと月後の3月2日に「漢方医の子弟で現在修業中の25歳以上の者、または家名相続の意志ある者に限り無試験で開業許可証を与える」との布告をおこなった。
    あとで考えてみるに、この布告は漢方医に一時の恩典として与える撒き餌のようなものだった。
    同年5月15日、五月晴れのもと第3回温知社全国大会が本郷龍岡町の禅寺麟祥院で開かれた。全国から集まった会員は二百余名に達した。浅井国幹が議長となり、念願の「和漢医学講習所(温知学校)」を日本橋に開くことを決議した。大会終了後、柳橋の亀清楼で親睦会が催され、八十余名の会員が盛会を祝った。
    この年の11月、わしは正七位の爵位を授けられた。12月には温知社幹部の今村了庵さんが医科大学の講師に抜擢され、和漢医学史を講ずることになった。
    温知社幹部の中には、「これぞ漢方存続運動の矛先を和らげんとする内務省の鎮撫的懐柔策だ。根本的解決にはならん」と声をあげる者もいたが、多くの会員はなんとなく納得して騒めきは鎮まった。
    明けて明治16(1883)年3月15日、温知社社員の寄付により日本橋本町に待望の「和漢医学講習所」が落成した。
    これに対して内務省はなぜか口を挾むことなくすんなりと開校することができた。

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