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シーボルト(6)[連載小説「群星光芒」129]

No.4707 (2014年07月12日発行) P.70

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-28

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  • 高良斎は、長崎屋の応対部屋で幕吏の間宮林蔵と一度だけ挨拶を交わしたことがある。年の頃は50前後、鼻毛はのび放題、なりふりなどまったく構わない。足袋もはかず、指の欠けた足をむきだしにして部屋に入ってきた。両手の指先がすべて欠けているのに目をやると、林蔵は良斎にむかって不敵な笑みをもらして言った。

    「おぬしも刀圭家なら、この指が凍傷でやられたことは判るだろう。なァに手足の1本や2本、公方様の為なら少しも惜しまン」

    林蔵は良斎の目を窺うようにして「わしは夏でも蚊帳は吊らン。大公儀に逆らうヤブ蚊どもをこの手で叩き潰す為だ。冬も火鉢は置かず年中素足で通す。樺太の寒さに比ぶれば江戸の冬など春のようじゃ」

    農民出身と聞いていたが、純朴さと不遜さが入りまじる。話の端々に公儀を敬い、蘭学を軽視する態度があらわだった。良斎にはほとんど口をきく間を与えず、己の言い分のみを喋って立ち去った。

    ――八方破れを装う油断ならぬ幕吏だ…。

    良斎は小柄ながら肩幅の広い林蔵の背中を見送りながらそう思った。

    天文方の高橋作左衛門景保とは長崎屋の蘭人部屋で面談した。年の頃40前後の作左衛門はざっくばらんな口調で良斎に言った。

    「林蔵殿は天下の奇人です。登城の際は裃をつけず、夏は炎天下でも裸足で歩くほど奇矯な御仁です。家を興す気などさらさら無く、ご奉公の邪魔だといって妻帯もなさらない。下僕を置かず、身の周りの世話は2人の下女がするだけです」 

    良斎がシーボルトの研究助手と知った作左衛門は人の好さそうな丸顔をほころばせて話しつづけた。

    「あの方はわれわれ蘭学者をオランダかぶれと苦々しく思っているようですが、それは、ひたすら公儀のことを思うからです。あくが強く馴染みにくいのですが、見掛けとちがって純朴なお方ですよ」。

    「随分お詳しい」と良斎は相手のよく動く唇を見つめて言うと、

    「林蔵さんには用事でときどきお会いしますから」と作左衛門は垂れ目を細めて頰笑んだ。

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