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高木兼寛(13)[連載小説「群星光芒」315]

No.4905 (2018年04月28日発行) P.66

篠田達明

登録日: 2018-04-28

最終更新日: 2018-04-20

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森 林太郎1等軍医は海軍の麦飯兵食をさらに批判した。

「原因と結果、すなわち因果関係を明らかにできなければ正統な学問ではない」

「治療効果が科学的に証明されておらぬ治療法を認めるわけにはゆかない」

これに追い打ちをかけるように森は「統計に就いての分疏(弁解、言い開き)」と題する論文を『東京医事新誌』に発表して海軍医務局の見解を糺した。

「一大兵団を二分して一方に麦飯を給し、一方は米食をせしめて米食者は脚気に罹り、麦飯食者は罹らずとする報告において統計による分析を致さねば意味がない」

練習艦《筑波》の航海実験によって兵員の脚気発症が激減した高木兼寛の論証を俎上に載せたのは明らかだった。

また、別の講演では帝大の大沢謙二教授が示した「麦は米より消化吸収が悪い」との実験結果を引用して、海軍の麦飯兵食をあからさまにあげつらった。

「一部の研究者は脚気白米原因説を唱え、これを仮説と称するが真っ当な学問の形態をなしておらず、ましてや医学研究の範疇にもはいらない」

「巷間の辻占いにも等しい空疎な仮説を取り上げて論ずるのは時間の空費である」

森の辛辣な言辞はすぐさま海軍医務局に伝わった。しかし兼寛は気にしなかった。脚気菌を発見した緒方正規帝大教授のつまずきを思いうかべたからである。

緒方教授の華々しい発表から3年後、ドイツ留学中の北里柴三郎が「緒方菌」の研究方法を批判する論文をドイツの学会誌に登載した。

その根拠として、第一に培地上のコロニー(細菌の集落)の形状に関する記載がないこと。第二に動物実験はコロニーのみを使っており、脚気患者の血液や脚気菌に侵された内臓を用いた実験ではないことを挙げ、細菌学の基本を無視した報告であると指摘した。

当時、陸軍省医務局次長だった石黒忠悳は顔面に朱をそそいで北里を非難した。

「事前になんら断りなく緒方教授の研究方法の不備を突くとは非礼きわまる。しかも北里は恩師の緒方教授に弓を引き、母校帝大に後足で砂を掛けた」

これをきいたとき兼寛は、「上下関係のきびしいドイツ流儀の帝大のことだ。これから北里さんの歩む道はさぞかし苦渋にみちたものになろう」と、気の毒に思った。

そういえば脚気菌発見以来、多くの追試が行われたが、菌が実在するかどうかは判然とせず、いつの間にか研究者の間で話題にされなくなっていた。

「森軍医の嘲りなど一々気にすることはあるまい。いずれ歳月が真実を明らかにしてくれよう」。そう考えて兼寛は腹を据えた。

明治24(1891)年5月11日、重大事件が起こった。この日、来日したロシアのニコライ皇太子 (のちの皇帝ニコライ2世)が人力車で滋賀県大津を通りかかったとき、突然護衛巡査の津田三蔵が抜剣して皇太子の頭部めがけて斬りつけた。護衛の武官に取り押さえられた津田は、「ロシアが日本侵略の下検分に皇太子を派遣したと思い込み剣を振るった」と白状した。

京都の病院に緊急入院した皇太子を見舞うため北白川宮能久親王が天皇名代として西下した。兼寛も能久親王に随行して皇太子の治療に当たった。皇太子の右耳介から右頰にかけて長さ18cmの切創があったが、ひと月あまりできれいに治った。

東京へ帰った兼寛は皇室より勲二等瑞宝章を授けられ、翌年8月には貴族院議員に任じられた。これにともない兼寛は現役を退き、海軍予備役に編入された。

明治27(1894)年の夏、朝鮮の農民たちが反乱をおこした。これをきっかけに日本と清国の間に朝鮮の支配をめぐる紛争が生じて日清戦争が勃発した。

翌春、日本軍は戦争に勝利して講和条約が結ばれた。台湾が日本に割譲され、台湾の先住民を統治する総督府が設立された。しかし、日本統治に反対する先住民の抵抗は激しく、中には武装蜂起した集団もあり、台湾駐留兵士は鎮圧に手古摺った。

おりしも猛暑のため、駐留兵士の間に脚気病が多発して治安はいっそう乱れた。

台湾総督府の初代陸軍局軍医部長として送り込まれたのは森 林太郎だった。

だが、森部長はあいつぐ駐留兵士の脚気病をくいとめることができず、在任3カ月で更迭された。そのあと就任した石坂惟寛軍医部長も3カ月で解任された。

3代目の軍医部長として派遣されたのが土岐頼徳陸軍軍医だった。土岐はかつて地方聯隊の兵士に麦飯を給与して当時の石黒忠悳軍医監に睨まれた熱血漢である。

このたびも、土岐は陸軍医務局長の石黒の命令を無視して、台湾駐留兵士に麦飯兵食を与えるよう指示した。

土岐は日清戦争が終結するまでの2年間に、海軍では脚気死亡者がほとんどなかったのに、陸軍兵士に4万1000人余の脚気患者と4000人余りの脚気病死者を出したことに義憤を覚えていたのである。

土岐軍医部長の指示により、増加の一途をたどった台湾駐留兵士の脚気病は収束しだした。そこへ東京の石黒軍医局長から台湾総督府に、土岐部長を叱責する文書が届いた。土岐は直ちに石黒の命令に反駁する上申書を陸軍省に提出した。

「麦飯の効果は確実かつ絶大である。なにゆえ台湾派遣軍は麦飯の恩恵にあずかってはいけないのか」

これに対して石黒軍医局長は「兵員の麦飯採用は不許可なり」との短い指示書を送りつけ、念押しする如く明治29(1896)年4月発行の『時事新報』に局長談話を発表した。

「先に森 林太郎軍医監が真正なる方法により兵食試験を行った結果、米飯がもっとも養兵に適することが判明した。米飯に何の害があるのか。米飯に比べて消化が悪く腐り易い麦飯に何の益があるのか。これを学問上並びに実験上確定いたさねば貴重なるわが軍隊の食料は断じて変更できぬ」

しかし土岐は腹の虫が収まらなかった。

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