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大村益次郎(8)[連載小説「群星光芒」277]

No.4866 (2017年07月29日発行) P.74

篠田達明

登録日: 2017-07-30

最終更新日: 2017-07-25

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  • 周防大島の屋代島を攻撃して戦端を開いた幕府軍は、その主力15部隊をもって芸州口(安芸国、広島県)に攻め寄せた。

    かれらの武器は弓矢や刀槍、銃が主であり、鉄砲足軽が携えた小銃は国産の古いゲベール銃だった。

    大軍を恃んだ幕府軍は長州兵を蹴散らそうと、昔ながらの足軽を先頭に大将をとりまく大集団で進撃した。

    だが、遠方の森や林の中から散兵たちのミニエー銃に狙われて足軽隊はバタバタと倒れた。敵の姿がはっきりせず、幕府軍の集団はたちまち大混乱に陥った。中には脱走や逃亡する兵士も現れた。

    小倉口では高杉晋作と山縣有朋が指揮する「奇兵隊」が幕府軍の機先を制して関門海峡を渡り、門司の敵軍を討滅したうえ、小倉城を陥落させて凱歌をあげた。敵将の幕府老中小笠原長行は長崎に遁走した。

    石州口(石見国、島根県)で指揮をとったのは村田蔵六である。ここでも藩士と領民が協力する散兵戦術により幕府軍を翻弄して大敗させ、長州藩は危機を脱した。

    村医者として閑をもてあましていた頃とは打って変わる活躍を示した蔵六は、藩命によりこの年の暮に大村益次郎と名を改めた。

    長州藩との戦いに惨敗した幕府中枢は、権力の失墜をまざまざと悟らされた。

    くわえて開国を巡る様々な外圧も押し寄せ、幕府の土台が揺らぎだしたのを認めぬわけにはいかなかった。

    天下の情勢を慮った土佐藩主の山内容堂は、徳川家に対して政権を朝廷に返上するよう建白書を提出した。慶応3(1867)年10月のことである。

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