明治9(1876)年の正月が明けると、内務省衛生局は東京・京都・大阪の3府に限っていた医師開業試験を全国各地で実施すると布達した。
「看過すれば医師を目指す若者はすべて西洋医学校へ行ってしまう。漢方医学を志す者は皆無になりかねない」
危機感を抱いたわしは漢方医の有志に呼びかけて、洋方に対抗する今後の手立てを練ることにした。
同年2月、鹿児島の不平士族が西郷隆盛を担いで大規模な反乱をおこした。いわゆる西南の役である。大久保利通内務卿は全国から徴募した庶民主体の兵士を動員して約半年後に鎮圧することができた。
その翌年の秋、わしが沢田邸に往診した際、沢田友則侍講は色白の眉間に深い皺を寄せて低い声で告げた。
「主上が御異例に悩んでおられます」
26歳の明治天皇はこの年の6月から3カ月間、京都に滞在していたが、下肢の転筋と強い倦怠感に苦しんだ。
伊東方成、岩佐 純、池田謙斎ら洋方侍医団は尿量減少と下肢の浮腫を認めたので脚気と診断して転地療養を奏上した。
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