株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

「天災は忘れた頃にやって来る」の出典

No.4723 (2014年11月01日発行) P.64

笹原宏之 (早稲田大学大学院教授)

登録日: 2014-11-01

最終更新日: 2016-10-18

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

【Q】

「天災は忘れた頃にやって来る」という,よく知られた語句は,東京帝国大学教授であった寺田寅彦(1878~1935年)の随筆の中にあると聞いていた。しかし,最近になって,そのような記載はなかったという説があることも耳にした。
この名言はどこからの出典なのか。(東京都 S)

【A】

天変地異に関する真理を語った,「天災は忘れた頃に来る」は,語呂の良い警句として人口に膾炙している。「頃」は「時」とも言い,かつては「時分」と言うこともあった。
また,「来る」は近年では「やって来る」となることが多いなど,細部に違いが見受けられる。これに関しては,『広辞苑』第6版(DVD-ROM版・CD-ROM版)に,第5版をほぼ踏襲して次のように記されている。

○天災は忘れた頃にやって来る 天災は,起きてから年月がたってその惨禍を忘れた頃に再び起こるものである。寺田寅彦の言葉とされる。高知市の邸址にある碑文は,
「天災は忘れられたる頃来る」。

その碑は,高知市の文化財として指定されている寺田寅彦邸(現在は寺田寅彦記念館)の入口にはめ込まれている。その上に置かれた「寺田寅彦邸址」の字とともに,寅彦と互いに尊敬しあっていた同郷の牧野富太郎(植物学者,1862~1957年)の筆によるもの(1952年)である。
このように,寺田寅彦の作ったフレーズだという話が広く流布している。また,『日本国語大辞典』第2版には,寅彦の弟子であった宇吉郎(物理学者,1900~62年)の「一日一訓」に,寺田寅彦の言葉として取り上げたのが初めという,と伝聞の形で説明が記されている。
中谷はこれにまつわる顛末を,随筆「天災は忘れた頃来る」(1955年,『百日物語』収載,1956年,文藝春秋新社)において,次のように記述している。
(中谷は,このフレーズが寅彦の書いた文章にあるものと勘違いしていたので,その思い込みにより)「15年ばかりも昔(1940年前後のこととなる)に新聞(「東京日日新聞」だったか,と言う)に紹介した」。
中谷によるこの新聞での紹介によって,この警句が方々で引用されるようになり,寅彦作者説も広まった。
さらにそこから,戦争中に「朝日新聞」が編集した「一日一訓というようなもの」に,中谷がこのことについて再び執筆するよう頼まれた際に,「天災と国防」(1934年)など寅彦が遺したそれらしい随筆を探して慌てて読み返したが,どこにも見つからず,載っていないことを確認し,それに基づいて適当に解説を記したと告白する。そして中谷は,寅彦自身は随筆など活字にはしていなかったが,その趣旨の話を寅彦が語る折に,本人の口からしばしば直接聞いたフレーズであったので嘘ではないと述壊している。そしてやはり寅彦の弟子であった坪井(物理学者,1902~82年)も,同様に寺田の随筆にあるものと誤解をしていたとのことである。
寅彦の著作集においては,たとえば,「天災と国防」などに,より長い文言によって確かに同じ趣旨が繰り返し語られており(http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000017074およびhttp: //www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/torahiko/tora hiko.htm参照),そのような警句を日頃端的に述べていたことは想像に難くない。
当時の「朝日新聞」を確認すると,1937年7月9日付朝刊7面には,「槍騎兵」「天災」という見出しのもとに中谷は,亡くなった寅彦が「防災科学を説く時にいつも使はれた言葉」として「天災は忘れた頃に来る」を紹介していた。しかし,著述にあるとは述べていなかった。  
そしてここにも,紙名について記憶の変質があったようである(この種の回顧には,当時しばしばみられることである)。
戦争中の「一日一訓というようなもの」については,それが見出しや書名だとすれば,当然存在するはずだが,同紙の紙面にも,国会図書館の蔵書にも見当たらない。
ネット上では,根拠を示さずにそれが1940年のものだとの説が流れているのだが,その9月1日付の朝日新聞の紙面には,東京版,大阪版ともに該当するものは見当たらない。
朝日新聞社の校閲記者である比留間直和氏に確認した結果,1944年9月1日付同紙朝刊1面題字下の「国民座右銘」のことではないかということで,それを見ると,確かに「天災は忘れられた頃に来る 寺田寅彦」とあり,中谷が解説を加えている。
同社からはそれを書籍化した『定本国民座右銘』も出版されていて,その296ページに,中谷の文がまた確かに載っていた(このことは,日本地震学会広報紙『なゐふる』76号(2009年11月)所載の武村雅之氏の文章にも引かれている)。そして書籍には紙面になかった次の文言が加えられていた。
「此の言葉は常々弟子たちに与へてゐたものである。文字通りの形で印刷には残ってゐないやうであるが」,随筆「津浪と人間」などは全文この言葉の意味に貫かれた警世の文字である。

先に引いた『日本国語大辞典』第2版も,「一日一訓」に,と記してしまっており,中谷のうろ覚えと曖昧な表現が後年に禍根を残してしまったことになる。
このように寅彦自身は,この端的な警句を口頭で述べるばかりで,活字には残さなかったというのは事実なのであろう。そして少なくとも「朝日新聞」に載ったそれらの記事が,この警句の寅彦作者説を世上へ広めた要因だったとみられる。口づてで伝えられ,活字に乗って広まった表現と言える。
戦後間もない1949(昭和24)年には,今村(地震学者,1870~1948年)が『地震の国』(文藝春秋新社)で寅彦が1923(大正12)年の関東大震災後に,何かの雑誌に書いた警句であったとの記憶を記し,豊島与志雄(小説家・仏文学者,1890~1955年)も同年発表の小説『失われた半身』の中でこの戒めの句を自然に使用している。
1959年に同じく「朝日新聞」の12月10日付7面に掲載された「寺田寅彦 25年忌に際して」という記事の中で,藤岡由夫(物理学者,1903~76年)も,「天災は忘れた頃来る」は,寺田先生の名言として知られているが,寅彦全集のどこを探しても見当たらない,と指摘している。

関連記事・論文

もっと見る

関連書籍

関連求人情報

もっと見る

関連物件情報

もっと見る

page top