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シーボルト(12)[連載小説「群星光芒」135]

No.4715 (2014年09月06日発行) P.70

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-27

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  • ついに別離のときがきた。

    「これをわたしと思ってくれ」

    そういってシーボルトは頭髪の一部を円形のビードロ器に入れてタキに渡した。タキも黒髪を切って差し出した。シーボルトはその髪の毛で羽織の紐を組ませて持ち帰ることにした。母子の像を青貝で象眼させた螺鈿の香盒も積荷に入れた。当年23歳のタキと3歳の幼女イネの可憐な姿だった。愛用した治療道具と薬味箪笥、各種の洋薬は高良斎と二宮敬作に渡すよう頼んだ。

    文政12(1829)年12月5日の夜明け、シーボルトが乗る帰国船は汽笛を鳴らしながら長崎港を出航した。町預となっていた良斎と敬作は師と別れの言葉を交わすことがならず、見送りさえできなかった。

    文政12年の暮、シーボルトに葵紋服を贈った奥医師土生玄碩に判決がおりた。

    間宮林蔵は腹心の香川赤心からその報告を受けた。

    「土生玄碩は改易となって奥医師を罷免されました。息子の西ノ丸奥医師土生玄昌も連座して職を追われ、居住地や家財はすべて没収されました」

    「当然のお裁きじゃ。奥医師連中も蘭人に尻尾を振れば危ねえことが身に染みたっぺ」。林蔵は頰の傷痕を撫でて目を細めた。

    翌年(文政13年・天保元年)の3月、高橋作左衛門に対して「存命ニ候ヘバ死罪」の判決がくだった。遺骸は瓶から取り出され、江戸千住の小塚原に投げ捨てられた。

    このほかの関係者にも判決がおりた。

    事件当時、長崎在任奉行の土方出雲守は「不行届ノ申聞カセ」、江戸在勤長崎奉行の高橋越前守は「自邸謹慎」、異人宿の主人長崎屋源左衛門は「手鎖50日」に処せられた。一行の付添検使水野平兵衛は、「荷物改メニ手抜カリアリ、召連レタル一行ノ行状改メモ疎カニシタルハ言語道断」と厳罰に処されるところだった。だが平兵衛の上役大草能登守の取成しによって重罪を免れ、「百日押込メ」となった。

    同時期、長崎でも町預の門人らに判決が下った。敬作は「長崎・江戸御構」に、良斎は「居町払」、絵師川原登与助(慶賀)は「叱」の軽罰だった。

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