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高野長英(2)[連載小説「群星光芒」166]

No.4753 (2015年05月30日発行) P.72

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-17

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    と甥の宮城信四郎に導かれて内田弥太郎は『大観堂』の塾長室に入った。そこにいた高野長英と初めて面談したとき、異界の人かと思った。

    6尺ゆたかな長身、細く盛り上がった高い鼻、エラが張り、大きくぶ厚い唇に左下がりの口角、薄い両眉の奥の切れ長の目はときおり鋭い眼光を放つ。長髪を束ねた面長の顔で弥太郎を見つめる面構えは人を威圧する独特の雰囲気を漂わせていた。

    「信四郎からきいたが、おぬしは関流和算術の大家だそうだな」と長英は底力のある声を弥太郎に浴びせ、「たいしたものだ」と白い歯並びをみせて笑った。

    「おぬしのような特技の持ち主をぜひ、わが門下にくわえたい」

    天保2(1831)年、『大観堂』の門下生となった弥太郎は、長英に誘われてしばしば酒を酌み交わした。長英はいったん喋りだせば弁をふるってとめどもなく、酔えばますます雄弁になる。弥太郎より1歳年上だが、ほぼ同年輩の誼もあって問わず語りに生い立ちを語ることもあった。

    「わしの生国は陸奥国の水沢(現・岩手県奥州市)だ」

    長英の母は水沢藩医高野玄端の三女で美也といった。あるとき玄端が不始末を仕出かして一家は水沢藩を追放された。美也も嫁ぎ先を離縁させられたが、のちに水沢藩士の後藤摠介と再婚して長男の湛斎、三男の譲(長英)ら3人の男子を生んだ。

    譲が9歳のとき夫が病死したため美也は息子たちを連れて水沢へ戻った。

    体格がよく腕力の強い譲は近所のガキ大将だった。譲が13歳のとき養祖父の玄端は水沢藩への帰参が叶った。玄端の息子玄斎には娘の千越がいたが、男子に恵まれなかった。美也は父の玄端から譲を高野家に養子入りさせ、千越を許嫁にすることを約束させられた。

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