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高木兼寛(4)[連載小説「群星光芒」306]

No.4896 (2018年02月24日発行) P.66

篠田達明

登録日: 2018-02-24

最終更新日: 2018-02-20

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海軍省の軍医となった高木兼寛は明治5(1872)年6月、師の石神良策の紹介により外務省勤務の蘭英学者瀬脇壽人の長女富子と結婚した。新居は海軍病院の官舎だった。

その日、24歳と19歳の新婚夫婦は仲人をつとめた石神の許へ挨拶に訪れた。

世話になった御礼を述べたあと、鹿児島での思い出話になった。そのとき兼寛はふと石神に訊いてみた。

「ウィリス先生は、なぜこの遠い国で働く気になったのですか」

「わしも同じことをウィリス校長に訊いたことがあるが、口を濁しておられた」 

石神はそういってから、
「ところが奥様が愛児アルバート君を生んだときはワインの酔いがまわったせいか、わしにじっくりと語られたのじゃ」

ウィリス校長が明治4(1871)年に鹿児島藩士江夏十郎の娘で19歳の八重子と結婚したことは兼寛も知っていた。

石神は盃をかたむけながら英医ウィリスが来日したいきさつを縷々語りだした。


ウィリスの故郷は北アイルランドのファーマナ州マグィアズブリッジ(County Fermanagh Maguiresbridge)といい、原野が広がる在郷だった。郊外には中世以来のエニスキレン城(Enniskillen castle)があり、戦略上の要衝としてイギリス軍が駐屯していた。

ウィリアム・ウィリスは1837年5月1日、農業を営むジョージとハナ夫妻の4男に生まれた。夫妻には男子4人と女子3人がいて、長男のジョージと次男のサイモンは医師となり、3男のジェームズが父の農場を経営していた。

ウィリスは19歳のときグラスゴー大学医学部に入学して予科課程を終えた。その後、エジンバラ大学医学部に進学、23歳で同大学を卒業するとロンドンのミドル・セックス病院の研修医Senior Clinical Assistantに採用された。

郷里にはケイト・ウィリアムズという美しい婚約者もいて順調な人生を歩んでいたが、研修中に思わぬ躓きが生じた。

ミドル・セックス病院の看護助手マリア・フィスクと理ない仲になり、彼女を妊娠させてエドワードと名づけた男の子を生ませてしまったのだ。

激怒したケイトに婚約を解消され、マリアも子どもをウィリスにおしつけて姿を消した。故郷へ帰ったウィリスは3兄のジェームズと相談してエドワードを養子に出すことにした。しかしフィアンセと結ばれなかった痛手と近隣の悪い評判に苛まれた。

――だれにも知られぬ遠くへ往こう……。

何度も地球儀を回しながら決心したのは北アイルランドからはるか離れた極東の国Japanで働くことだった。

1861年11月、英国外務省の資格試験に合格したウィリスは希望通り日本国駐在イギリス公使館の補助官兼医官に任命された。

その翌年1月にロンドンを出発したウィリスは上海を経由して、6月初めに横浜に到着した。イギリス公使館に着任したのは6月11日、25歳のときだった。

「それからのウィリス先生の活躍ぶりはお前もよく知っているだろう」

石神はそういって盃をおいた。


海軍省が海軍病院内に「海軍病院学舎」を設置したのは明治6(1873)年8月だった。

兼寛はこの学舎の教員となり、芝高輪の海軍病院も兼務することになった。

学舎にはお雇い外国人のイギリス海軍軍医ウィリアム・アンダーソンが勤務していた。

「毎年、夏になると海軍兵士にBeriberi(脚気病)が多発する」

と生真面目なアンダーソンは頰骨の出た青白い顔を兼寛に向けて言った。

「Beriberiは東洋にしかみられぬ疾患なので治療には難渋している」

彼はロンドンのセント・トーマス病院から赴任してきた外科医で、ウィリス譲りの英会話に堪能な兼寛をなにかと頼りにした。

明治の建軍以来、陸海軍ともに脚気病の多発が国防上大きな問題になっていた。ことに陸軍では明治初年以来、毎年夏になると兵士の1/5から1/3が脚気に罹患する事態が続いていた。

脚気は都会を中心に庶民の間でも流行していて、民政上も由々しい問題だった。

しかし、内務省はこれといった対策をうちだせず、手をこまぬいていた。

そして、間もなく蒸し暑い夏がやってきた。アンダーソンの言うように、海軍では脚気が大流行して、築地の海軍病院に大勢の脚気患者が入院してきた。そのうちに海軍病院だけでは収容しきれなくなり、近隣の寺院の広間などを借りて患者を収容するありさまだった。

このままでは海軍の戦力に悪影響をおよぼしかねず、新婚の兼寛も安閑としてはいられない。アンダーソンとともに脚気患者の診療におおわらわだった。

軽症の入院患者は峻下剤を服用させ、下肢の麻痺には刺絡を施術したのち芝増上寺の海軍兵士寮に転送させた。

しかし、転送途中に脚気衝心(急性心不全)を起こして急死する患者もいて、兼寛は愕然とした。

秋口になると脚気患者は大幅に減ったのだが、アンダーソンは「来年の夏もまたこんな目にあうのか」と薄い唇をへの字にまげて肩を落とした。


明治7(1874)年7月、兼寛は26歳で海軍少医監(少佐相当官)に昇進した。海軍中枢の医務行政を実質的にとりしきる立場になったのだ。

この年の11月1日、待望の長男喜寛が生まれた。しかしそのひと月後、父の喜助が享年48で没したため、急ぎ故郷の穆佐村(宮崎市)へ帰り、あわただしく葬儀を済ませた。

明くる年の4月1日、大恩を蒙った師の石神良策が55歳で没した。海軍の軍医制度を創建し、後進の指導に尽くした石神の遺体は、芝白金の海軍共同墓地に丁重に葬られた。

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