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連載を終えるにあたって(下)【地霊の生みし人々(33)】[エッセイ]

No.4856 (2017年05月20日発行) P.68

黒羽根洋司

登録日: 2017-05-21

最終更新日: 2017-05-16

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  • 家督を継ぐとすぐに遭遇した幕末から維新という切所を、本領安堵という形で乗り切った13代酒井忠篤は、1872(明治5)年、陸軍少佐に任ぜられる。その年4月には、西郷隆盛の勧めに従ってドイツに留学する。性英邁にして身の丈6尺、弱冠20歳の忠篤は、ドイツの軍人にまさるとも劣らぬ偉丈夫であった。翌年には弟、忠宝も渡独し、大名の身分での長年月の留学は、これが初めてであった。背景には官軍、賊軍の意識を捨て、新しい時代を創るには優秀な人材を登用すべきという西郷の考えがあった。帰朝後廟堂に立って、日本の政治や軍事のために大いに尽くしてもらいたい、という西郷の意を受けた兄弟2人には、雄心勃々たるものがあった。
    だが、その5年後に西南の役が勃発、西郷隆盛が城山で自刃するに至るや、中央の派閥の関係から、留学中に非職陸軍中尉に降格された。西郷という偉大な後ろ楯を失った落胆は大きく、新政府の恣意的な人事は彼らの志をたちまち萎えさせた。
    帰国後、1879(明治12)年に佐倉分営詰という閑職にひとしい官を命ぜられたが、病と称して辞職した。ドイツに7年間、あらゆる艱難辛苦に耐え軍事学を学び、国家に報いようという彼らの情熱は、あっけなく潰えた。かくして、旧藩主兄弟は郷里にあって文教・産業の振興に務め、ひいては国家に貢献すべく道を選択する。この時を契機として、新政府によって賊軍という汚名をかぶせられた庄内人のルサンチマン(怨念)は、外(中央)に向けられるよりも、内(旧藩)への回帰という形に収斂していった。

    沈潜の風

    旧藩主兄弟の逼塞により、士族たちも中央への志を失い、辺土庄内で農耕や読書を事とする消極的な生活を送るしかなくなった。さらに、彼らは恃む精神的支柱を「沈潜の風」という言葉に求めた。

    「沈潜」の語は『書経』や『中庸』にある。
    佐賀出身の元参議副島種臣が庄内を訪れ『詩経』を講じたときに、庄内には藩祖以来、「沈潜の風」があると語った。「沈潜の風」とは強情っ張りが芯になり、華やかなことはやらずじっと底に潜み、自分の教養を高めることで、そこには反骨精神が生まれること(犬塚又太郎の「庄内人の風格について」より)とされた。藩閥政府の下に立つことを潔しとしない道を選んだときから、この言葉は自分たちが拠って立つ背骨をなした。

    かくして、旧士族たちは中央で名をなすことよりも、郷里にあって鍬をとり肥桶を担いで山野を開墾し、農業・養蚕・製糸などの興産に励んだ。君臣関係、長幼の序を貫き、藩学である徂徠学を学び、四書五経を聴講する姿は、さながら江戸時代に後戻りしたふうであった。

    鶴岡出身の作家丸谷才一は語る。「明治維新の鶴岡は自由で文化程度が高かったのに、その後は保守的、退嬰的な町になったと感じた」(山形新聞「丸谷才一の原点」2011年10月)。さらに彼は、「どんより澱んだ、保守的な町に育ったものだから、僕は自由に考えることにたいへん憧れた。(中略)大勢を占める意見に対して同調しないで、異を唱える人を偉いなあと思うようになった」(丸谷才一『思考のレッスン』文藝春秋刊)と書く。

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