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谷崎潤一郎の『高血圧症の思い出』─当事者の心理と対応 [エッセイ]

No.4778 (2015年11月21日発行) P.72

高橋正雄 (筑波大学人間系教授)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-08

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  • 谷崎潤一郎(1886~1965)が1959(昭和34)年、73歳のときに発表した『高血圧症の思い出』1)には、谷崎の高血圧症患者としての体験が描かれているため、戦前から戦後にかけてのわが国の高血圧治療の一端や高血圧症患者の心理を知る上でも、興味深い作品である。

    初期の対応

    『高血圧症の思い出』の冒頭には、「高血圧症という病気の存在が一般に知られ、注意を引くようになったのは、私の26、7歳前後からであったと思う」という記載がある。この記載によれば、わが国で高血圧に一般の関心が向けられるようになったのは大正初期ということになるが、当時は「血圧が180以上になると致命的だ。大概2年以内に死ぬ」という説が流布して皆が恐れていたという。

    谷崎が血圧に対する最初の警告を受けたのは50歳前後、すなわち1935(昭和10)年頃で、そのときは神戸で名医の誉れ高い重信政英博士から、「血圧が170ある、今からこんなに高いのは宜しくない」と言われたという。

    この警告はかなりこたえて、元来が健啖家で一升酒を嗜んでいた谷崎も、当座は酒や食物に制限を加えた。しかし、それもあまり長くは続かず、いつからともなく元に戻ってしまったという。

    もっとも、たばこだけは1936(昭和11)年の二・二六事件前後から完全に止めた。というのも、谷崎の場合、たばこは調節不能であり、吸うか止めるかのどちらかしかできなかったため、酒を止めない申し訳としてたばこを止めたのである。

    以来、禁煙は守り通したものの、酒と美食はどうしても止められなかったので、気がとがめた谷崎は血圧計に近寄らないようにしていたが、1947(昭和22)年の春、谷崎の土気色の顔色を心配した妻が、若い医師を連れてきて血圧を測らせたところ、200mmHg以上あった。そのため、京大のP博士から血圧降下薬と睡眠薬を処方されて、「終日横臥しつつ半醒半眠の状態で過ごす」よう命じられたほか、執筆は厳禁、酒や食物の制限も受けたが、「特に塩気の強い物を避けるように」と言い渡されたという。

    ここで初めて減塩という指示が出てくるが、P博士は、妻に「この状態が長く続けば多分御主人の寿命は長くないでしょう」と洩らしたものの、谷崎には何も教えなかったので、谷崎自身、脳溢血で死ぬにしても今すぐではあるまいと高をくくっていた。「高血圧と言っても自覚症状が伴わず、何の苦痛も感ぜられないので、P博士の養生法を左様に長くは守っていられず、毎日毎日睡眠薬で頭をぼんやりさせているに耐えられず、又いつの間にか仕事をするようになった」。

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