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ウリツカヤの『クコツキイの症例』(上)─続・文学にみる医師像 [エッセイ]

No.4764 (2015年08月15日発行) P.72

高橋正雄 (筑波大学人間系)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-14

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  • 産婦人科医パーヴェル

    2001年にロシア・ブッカー賞を受賞したリュドミラ・ウリツカヤの『クコツキイの症例』(日下部陽介訳、群像社、2013年)には、スターリン統治下の厳しい時代を生き抜いた、パーヴェル・クコツキイという医師が描かれている。

    クコツキイ家は、17世紀末以来、男は皆医師という家系で、「あらゆる位階と恩寵の許される優良なる上級貴族」に属していた。この物語の主人公パーヴェル・クコツキイも、幼い頃から生き物の体の構造に密かな関心を抱き、こっそり父親の書斎に忍び込んでは、重い観音開きのガラス戸のついた書棚からプラテンの3巻本の医学百科事典を取り出して読みふけっていた。

    このようにパーヴェルは、幼い頃から10代の半ばまで父親の書斎で至福の時を過ごしたが、父親もそんなパーヴェルの資質を見越して、小さな倍率50倍の顕微鏡を買ってくれた。

    パーヴェルの父アレクセイは、生涯、野戦外科の講座長を務めながら手術をやめなかった医師であった。日露戦争と対独戦という2つの戦争の合間に、近代的な野戦外科学校を作ろうと尽力したが、1917年に砲弾が外科車両に命中して、患者や看護師もろとも戦死した。 

    パーヴェルは、父親が亡くなった年にモスクワ大学医学部に入学したが、父親が皇帝軍の大佐だったという理由で退学を余儀なくされた。しかし、父の友人だった産婦人科教授のとりなしで、1年後には復学した。その後、パーヴェルは優秀な産婦人科医として出世したが、その過程で、周囲の人々は「ほとんど誰もが同じように恐怖に捉われていること」に気づいた。「たいていの人が出自や素性に何かしら恥ずべき事実を隠しているか、あるいは隠しきれずにいるかのどちらかで、犯してもいない罪に対する罰がいつ下されるかと、絶えず不安の中で生きていた」のである。

    スターリン時代の人々は、「それぞれに口をつぐんでいることがあり、誰もが暴露を覚悟していた」ような状況に置かれていた。

    妊娠中絶の合法化

    第二次世界大戦も終わろうとしていたある日、大学教授となっていたパーヴェルは保健省に呼び出され、保健制度の母子に関わる部分を立案するよう命じられた。パーヴェルに渡された統計資料は、不正確ながらも悲惨な人口動態を明らかにするもので、回復不能なまでの男性人口の損失と、それに伴う出生率の低下や子どもの死亡率、とりわけ幼児の死亡率がきわめて高いという事態を告げていた。

    当時は現場の医師なら誰でも知っていたように、出産可能年齢の女性がかなりの数、犯罪的な妊娠中絶によって命を落としていた。公的には、医療としての妊娠中絶は1936年のスターリン憲法の採択とほぼ同時に禁止されたが、避妊薬が事実上存在しなかったこともあって、緊急手術のおよそ半数が非合法な妊娠中絶の結果によるものだった。

    医師は、救急車で運び込まれてくる女性の1人1人について、「非合法堕胎の事実を構成する事案」であることを証言する義務があり、その結果、女性は司法の追及を受けることになるのだが、パーヴェルは患者が亡くなった時にのみ「犯罪的堕胎」という診断を下した。というのも、この診断を下せば、患者も処置を施した者も被告席に追いやられてしまうからであり、実際、何十万人という女性がこの条文によって強制収容所に送られていた。

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