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シルバーカーと共に[エッセイ]

No.5163 (2023年04月08日発行) P.62

内藤裕史 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2023-04-09

最終更新日: 2023-04-07

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私は92歳。過去20年間に3回、いずれも庭仕事をしていて脊椎の圧迫骨折を起こし、数年前ついに脊椎後方固定術を受ける羽目に至った。歩く姿はチンパンジー、直角に曲がった上半身を杖1本で支えるのは容易ではない。チンパンジーは前足2本で支えるが私には無理である。チンパンジーのような腰曲がりにとっては、杖だけで歩くのと立っているのが何よりつらい。東京駅八重洲南口のバス乗り場で、20分程度ではあるがバスを待っているのがつらかった。チンパンジーが2本足で立ち、腰を伸ばして人類になるのに500万年かかった理由がよくわかる。

●シルバーカーの購入

主治医に「杖歩行は限界でしょう」と言われた。介護用品のカタログには歩行器とシルバーカー数十種類が掲載されているが、ハンドルが自転車のように真っ直ぐなのがシルバーカーと呼ばれている。折り畳んで車に積もうとすると私には5kgが限界である。購入したのは「コンパクトで持ち運びに大変便利」が謳い文句のシルバーカーである。重さは4.3kg、耐荷重は80kgで、物入れ用に内容積2Lの箱型バッグが座面の下にある。折り畳むと簡単に持ち運べ、車の助手席の足元にすっぽり収まる。18×25cmの座面がついていて座り心地は悪いが、腰を降ろせるのは福音である。

折り畳み可能なシルバーカーを車に積んで3kmほど離れたショッピングセンターに行き、買い物がてらアーケードを往復して歩行訓練をすることもある。天候に左右されないのが有難い。アーケードの床には50m、100mと目立たない表示がある。

●広がる行動範囲

つくばから東京駅行きの直行バスの横腹のトランクに積んで東京駅で降ろし、開いて快適に歩きはじめるが、トランクの重い扉の開閉は私にとっては難物で、運転手がしてくれることが多い。東京駅構内の階段やエスカレーターを避けるには構内の地図と、ホームのエレベーターの位置が頭に入っていないと苦労する。

電車の乗降はおおむね支障はないが、電車とホームとの間にすき間が空いていて、かつ段差が大きいのは鬼門である。シルバーカーにとって段差も傾斜も上るのはよいが、下るのは下手をすると、前のめりになりヒヤッとすることがある。こういう鬼門の乗降でも乗客はおおむね親切で、瞬間、他人の親切が身に染みる。礼を言おうにもその人は背を向けてはるか先を歩いている。電車の乗客の親切さを教えてくれたのがシルバーカーである。

スーパーマーケットなど狭い所でシルバーカーを前後左右に動かしていると、左右の前輪が絡んだようになって動きが取れなくなることがあり、私も何回か経験した。その時、サッと身をかがめ素手で前輪の向きを変え、私は「アッ」と言っただけ、礼を言う間もなく立ち去っていく人がいる。瞬間、他人の親切が身に染みる。

昨年はシルバーカー持参で札幌に遠征し、海外旅行にも自信がついた。現在はつくばから羽田空港まで直行バスが運行されているから、さらに便利になった。

空港ではシルバーカーは手荷物として預け、客はチェックインカウンターから搭乗口まで係員が車椅子で送ってくれる。搭乗はファーストクラスやダイヤモンドやプラチナクラスより先である。シルバーカーのお陰で王侯貴族扱いである。座席は最前列の通路側で、降りるのは最後で、搭乗口まで迎えに来ている車椅子で人気のなくなった通路を通りエレベーターで手荷物受取所まで行き、ベルトコンベヤーに載って出てくるシルバーカーを拾い上げ、そこからはシルバーカーで歩く。

シルバーカーは杖歩行もままならない私の行動範囲を若い頃と同じくらいにまで広げてくれた。シルバーカーで歩く私を見たドイツ帰りの人が、「ドイツではこうしたシルバーカーで歩いている人を沢山見かけますが、日本では少ないですね」と言ったが、私もほとんど見かけた記憶がない。高齢社会と言うが、腰に障害を持つ日本の高齢者はみんな自宅に籠っているのだろうか、施設に収容されているのだろうか、杖歩行で苦しんでいるのだろうか?

スーパーでもコンビニでも郵便局でも病院の受診でも図書館でも、1人で気軽に行けるのは車に積んだシルバーカーのお陰である。シルバーカーは車などの遠距離移動手段とセットで使うと利用価値がぐんと上がる。車の場合、高齢者の車の運転が問題になるが、これについては稿を改める。

出先で細かい字を読むとき、常用している遠近両用の眼鏡を外し、首からぶら下げている読書用の眼鏡に替えるが、外した眼鏡の置き場に困る。フックを買ってきてシルバーカーのハンドルにぶら下げたら便利になった。ささやかな便利だが、ささやかな便利が重なると快適になる。私はつば付きの帽子を被っているが、飲食のときに帽子の置き場に困る。シルバーカーのハンドルの持ち手から中央寄りに幅15mmくらいの牛革を巻き付けて強く結ぶと結び目が瘤のように盛り上がり、帽子をハンドルに引っ掛けた際の滑り止めになる恰好である。

●シルバーカーと喫茶店

喫茶店に入るとき、私は必ず書きかけの原稿を持参する。耳栓をしてコーヒーを飲みながら1人の世界に閉じ籠る時間は、推敲だけに集中できる代えがたい充実した時間である。ウエートレスも気を利かせて黙って置いていくのか、テーブル上のコーヒーやケーキに気づかないことも珍しくない。

新しく開店した喫茶店に入った。私は高齢のためか尻の筋肉がやせて椅子の座面が固いのは苦手であるが、この店の椅子はクッションが良い。内装とマッチしているのも良いし照明も落ち着いている。コーヒーは美味しく、カップの白が際立っていた。ソーサーを裏返すと〇〇bone chinaとあった。テーブルの上のメモには、コーヒー用ミルクには「トランス脂肪酸を含まないものを使用しています」とあった。いずれも経営者のこだわり、見識であろう。

帰りがけに、送って出てくれた店長格と思しき男性に「この店の内装は落ち着いて居心地が良いね」と言うと、「昔の喫茶店をイメージしました」と言う。「私は若いから昔のことは知らないけど」と言うと男性は、店長格らしく慇懃に「ごもっともで」と頭を下げた。

私は背骨が曲がって棘突起が飛び出ているので、椅子に腰かけるとき背中に枕が欲しい。店に行き初めの頃、「腰が痛いので膝掛を丸めたようなものがないか」と尋ねると、注文通りの物を持ってきてくれた。最近では注文を取りにきたウエートレスが膝掛を置いていく。時には膝掛を抱えて、「いらっしゃいませ」とドアまで出迎えてくれる。

先日、案内された席に座ろうとしたら膝掛が置いてある。「これは昨日僕が置いて行ったのかな」と言うと、ウエートレスは、「車をお止めになるのが見えましたので」と言う。広い窓からガラス越しに駐車場がよく見える。何気ない高齢者への気配りを感じることができるのもまたシルバーカーのお陰である。

●お忘れ物ですよ

帰るとき、膝掛の置き場所がわからないし、ウエートレスに手渡しても仕事の邪魔になりかねないから、私はそのまま置いて立つ。ところが私が席を立つとき、しばしば隣の席の人から「お忘れ物ですよ」と声を掛けられる。駐車場まで追いかけて来た人もいた。席と席の間はソーシャルディスタンスだ。

先日、支払いのためにレジにいたら、「お忘れ物ですよ」と背中をポンと叩かれた。振り向くと女性が膝掛を持って立っている。私は恐縮し、「それはこのお店の物です、済みません」と言うと女性は、「貴方は何をしていらしたんですか」と聞く。目の前にコーヒーが並ぶのにも気づかず赤いボールペンを片手にしかめ面をしている老人を奇異に感じたのであろう。「論文を書くので推敲をしていた」と言うと「何の論文ですか」と聞く。忘れ物を注意された負い目があるので正直に「僕は医者だから医学論文」で追及は終わった。並んで出口に向かって歩きながらその女性は、「私はリハビリ関係の仕事をしているので、貴方のような方がこうして積極的に外に出て来るのを見るのが好きなんです」と言い、私が「私もこの身体だからリハビリには随分お世話になった。貴女は理学療法? それとも作業療法?」と聞くと、「作業療法です」と言う。障害のある高齢者がシルバーカーで外に出るのを見るのが好きとは、障害のある高齢者の自立を目的のひとつとする作業療法士としては好ましい姿なのであろう。そう言えば、この喫茶店で高齢者を見かけたことはついぞない。

先日、帰ろうと席を立つと、隣の席の青年から声を掛けられた。
「お忘れ物ですよ!」
「あ、それはここのお店の物で、僕が来るとコーヒーより先にこれが出てくるんですよ」
「何年くらい通っていらっしゃるんですか?」
「2、3カ月くらい前からかな」
「良いですねぇ」
「いやぁ、それには腰がこんなにひん曲がってないと無理だよ」
「いえ、私はいつもこれ、アイスティーですが」

この気持ちのいい青年は、客が席に着くなり注文しなくてもその客の希望するものが目の前に現れるということに、客として一種の憧れのようなものを率直に口にしたのだろう。

●多目的トイレ

初めてトイレに行ったとき、さっとウエートレスが来て引き戸を開けてくれた。右手に男性用、左手に女性用、その間に多目的トイレがある。「ありがとう」と言って男性用に入ろうとすると、「こちらのほうがお楽ではないですか」と多目的トイレのドアを開けようとする。「実はそうなんだ」と言って入ろうとすると、「中から鍵をかけて下さい」と声を掛けて出て行った。終わって出てくると出口の引き戸は閉らないように支えが置かれていた。

先日もウエートレスが付いて来てくれたが、多目的トイレは使用中だった。男性用に入ろうとすると、ウエートレスは不安げに中まで付いて来た。

シルバーカーは自転車と同じで、両手でハンドルを握るので片手を離すのは傍目にも危なげに見えるらしいということを、そして老人がさりげなく労られていることを私はこの店で知った。

私が通路をシルバーカーでトイレに向かって歩いていると、少し離れて平行するサービス通路をウエートレスが足早にトイレに向かっている。タッチの差でウエートレスがドアに手を掛け開けてくれる。

先日、トイレに向かって歩いていると、ウエートレスが左と右から同時に歩き出したと思ったその途端、2人は目顔で合図し1人はサッと引き返して行った。お互いの阿吽の呼吸でスムーズに流れる仕事にほんの瞬間、シルバーカーのお陰で図らずも触れた。

客の1人がそれ以来、どこへ行っても、もっぱら多目的トイレを利用しているということを、「こちらのほうがお楽ではないですか」と最初に声を掛けてくれたウエートレスは知っているだろうか?「こちらのほうがお楽ではないですか」と言う言葉は、一生に一度聞けるか聞けないかの思い遣りの言葉だ。

帰ろうと出口のドアに向かうと、どこからともなく店員が走り寄って来て出口の自動ドアのボタンを押してくれる。店長がそうするので店員も同じようにする。私はお陰でハンドルから手を放さずに済む。

私が帰ろうとシルバーカーで歩き出すと、送りに出たウエートレスの「またお待ちしています」「気をつけてお帰り下さい」の明るい声が背中で聞こえるが、ただでさえ上半身をねじることができない私は、前に体重を掛けて歩いているので振り向くことができないから、手を後ろに回し、イヌが嬉しい時に尻尾を振るように、ひらひらと振る。「これが僕のありがとうと言う挨拶だ」と、古くからのウエートレスに事情を話し「理解してもらえるだろうか」と言うと、引き返し間もなく戻って来て「みんなに言いました」と嬉しそうに笑った。

●意外なシルバーカーの運搬機能

シルバーカーのお陰で外出が楽しくなると、家の中での移動の際のつらさが堪えるようになった。折り畳める必要はないが小回りの利くコンパクトなのがよい。買ったのは2.7kgのシルバーカーである。これで書斎から玄関、リビング、食堂まで苦痛から解放されたが、台所に行くには、洗面所からとリビングからといずれもドアのレールがあって、シルバーカーにとってはバリアである。シルバーカーを片手で押し、片手にコーヒーカップを載せたトレーを持って歩くのは危なっかしい。段差が1cmくらいあったが、知り合いのリフォーム屋さんが介護保険を使って直してくれた。

使うシルバーカーのキャスターの直径は12.5 cm、幅は1.3cmと小ぶりである。したがって、割箸くらいの段差でも、幅の狭い前輪が引っかかると90°くるっと回転してレールの溝にはまってしまう。たとえ割箸くらいの段差でも、たかがバリア、されどバリアである。このバリアが解消されてシルバーカーの利用価値がぐんと高まった。フックを買ってきてシルバーカーに引っ掛け、眼鏡とマスクをぶら下げた。これで、シルバーカーの行くところ常に眼鏡とマスクがあることになる。

意外だったのは、重い本を数冊、あるいはデスクトップパソコンくらいの物なら座面に積んで安定させれば耐荷重80kgだから楽に運ぶことができる。しかも、高い位置だから降ろすとき楽だという運搬車の機能である。

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