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安部公房の『箱男』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.5081 (2021年09月11日発行) P.62

高橋正雄 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2021-09-12

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1973(昭和48)年に発表された安部公房の『箱男』(新潮社刊)の「供述書」と「続・供述書」という2つの章には、海岸の公園に打ち上げられた箱男の変死体が地元の医師であると証言する医師見習のCという男の供述が記されているが、そこから浮かび上がるのは、倫理的・人間的にどうかと思われる医師の姿である。


まず、「供述書」という章でのCは、自分が医師として使用していた姓名は、戦時中に衛生兵として従軍していた時の上官にあたる軍医の名前であるとして、自分は本人の了解のもとに、この軍医の名前を借用して医師として活動していたと語る。1926(昭和元)年生まれのCは、自らの贋医者としての行為を、「不当診療について、お咎めならば、他人の名を騙ったことについては、深く反省し、今後一切診療行為を行わないことを約束して、世間におわびしたく思っております」と詫びながらも、その一方で、医師としての自分の実績については、「患者からの評判もよく、正規の免状をもった軍医殿の指示も応援もあおぐことはありませんでした」と得意気に語るのである。

その後に続く「続・供述書」におけるCは、ダンボールの箱をかぶった変死体がその軍医であることを認める一方で、戦時中に軍医と知り合った経緯について、「私は某地野戦病院において、軍医殿の従卒に配属されました」、「私は物憶えがよく、手先も人並以上に器用であったので、軍医殿の指導により、かなり複雑な手術なども出来るようになったのです」と語る。

Cによれば、当時この軍医は、羊が材木を原料とした紙を食べることに着目して、「材木から糖分をつくる研究に熱中していた」とあるように、医師としての活動よりも化学的な研究のほうに興味を持つ技術系・工学系の人間だったようで、この辺の特徴は、砂穴の中で地下から水を吸い上げる装置を発明する『砂の女』〔1962(昭和37)年、新潮社刊〕の主人公や、実験中の爆発事故で損傷した顔の仮面を作る『他人の顔』〔1964(昭和39)年、講談社刊〕の主人公に似たところがある。

しかし、そうした研究の最中、軍医が「三日間、高熱が続いたあと、ほぼ三日の周期をもって痙攣と精神錯乱を伴う激しい筋肉痛の発作に襲われるという奇病」に罹った時、軍医の看護に当たっていたCは、軍医のたっての希望や、その苦痛を見かねたこともあって、麻薬を常用させた。そしてその結果、軍医は「終戦時には、すでに中毒症状を呈して」いたのである。

Cは、復員後の軍医に協力して診療所を開設し、軍医の代診として診療ならびに経営にあたったものの、軍医の病状は一向に改善しなかった。当時の軍医は、カルテによってCに指示を与える以外、直接診療は不可能な状態だったのである。

それから8年目を迎え、軍医には「異常な言動が目立ちはじめ」、発狂説を含めた誹謗中傷がなされるようになった。また、麻薬の使用量が一般の平均をかなり上回って監査を受けたりもしたため、軍医とCは、診療所を閉鎖して当市に移ってきたのだという。

その後、軍医の状態は益々悪化し、自殺傾向も目立つようになってきた。そこで、対外的にも軍医を表に出すことはやめて、Cが軍医になりすまして登録したのだが、その頃の軍医は、姓名や戸籍、資格だけでなく人格までもCに譲渡し、「自分が何者でもなくなったと信じていた」ため、ダンボールの箱をかぶって街中を徘徊してもおかしくない状態だったと、Cは証言する。軍医は、麻薬の注射によって、「肘の内側、大腿部などは、注射の瘢痕ですでにかさぶた状」になるほど、麻薬中毒が進んでいたのである。

さらにCは、「麻薬中毒患者が薬を手に入れるために、いかに狡猾、かつ無鉄砲になるかは、すでに世間周知の事実」として、この軍医の場合も、「自殺を見合せてやるかわりに、麻薬の量を増やしてほしい、新しく来た看護婦見習《戸山葉子》の裸体を鑑賞させよ、裸体のままの《戸山葉子》に浣腸してもらいたい」などの理不尽な要求をしてきたと暴露するのだが、このように、『箱男』の軍医は、薬物依存症によって半ば人格が崩壊した人物として描かれている。また、彼の身代わりを務める贋医者のCも、「当地においても患者の信用は厚く、私の有罪が確定しましても、追いかけて被害届が出されるようなことはありえない、と自信を持って申し上げることが出来ます」、「二十年にわたる経験と、良心的な研究心が、免許の有無を超えた自信になっていたのだと思います」と、臆面もなく自慢するなど、倫理的にはどうかと思われる人間である。

特に、「他の病院からまわって来た患者を診て、不勉強な大学出の医者の無責任な誤診に、呆れ果てたこともしばしばでありました」といった記述を見ると、そこには、なまじ資格を持つ医師よりも贋医者のほうが腕が上であるという、安部公房なりの医師批判が含まれているのかもしれないが、いずれにしても、『箱男』は、安部公房の特徴たる医師批判という要素の強い作品であることがわかる。

実際、『箱男』には、上記2章以外にも、「医者も負けずに、覗き窓から腕を突き出してきた。思いがけない握力で、ぼくの右頰が餅のようにわしづかみにされる」という文章がある。ほかに『けものたちは故郷をめざす』〔1957(昭和32)年、大日本雄弁会講談社刊〕には「医者に、手首をつかまれ、ひねりあげられたのだった。医者は久三をひねりあげたまま、船長に手渡す」という記述があるし、『他人の顔』や『密会』〔1977(昭和52)年、新潮社刊〕にもそれぞれ、主人公に「患者の弱みにつけこんだ、単なるぺてん師にすぎないのではあるまいか」という不信を抱かせる医師や、「看護婦なんかともとかくの噂があるようだし」、「きっと脳味噌の中まで発情しっぱなしなのだろう」と推測される医師が描かれるなど、安部公房の作品には、しばしば暴力的で犯罪者的なニュアンスの強い医師が登場する。


そこには、医師の子どもとして満州で育ち、1948(昭和23)年に東大医学部を卒業しながら医師にならなかった安部公房の医師に対する複雑な思いが込められているのであろうか?特に、安部公房の周囲には、尊敬に価するかつての同級生なり医師が少なからずいたであろうことを思う時、安部公房が一貫して否定的な医師像を描き続けた理由は、気になるのである。

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