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留学生とボタンの掛け違い[炉辺閑話]

No.4993 (2020年01月04日発行) P.69

金津赫生 (つくば市)

登録日: 2020-01-05

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最近、「明治百五十年に読みたい岩波文庫」の1冊として石黒忠悳著『懐旧九十年』が復刊されました。中に、東京大学医学部総理心得に任じていた頃の思い出として、官費留学生の選考事情が語られています。石黒は選考に当たった当事者の一人であったようですが、多少不明確なところもありますので、他の資料も参考にして勘案してみたいと思います。

『東京大学百年史 部局史二』の年表に「明治十二年二月二十一日 医学本科卒業生徒試問規則の制定。二月から六月にわたり、解剖学と生理学、外科と眼科、内科と産科の三大科目とし、各科別に試験委員を任命。十月十八日 第一回学位授与式。医学士は本科卒業生十八名」とあります。

外科と眼科はシュルツ、内科と産科はベルツが兼担し、病理学は三宅秀が担当していました。留学先での専攻科目は産科・婦人科、病理学、眼科と決定されていたものと思われます。まず、産婦人科は成績第一位の清水郁太郎に決まり、病理学を二位の佐々木政吉に充てたところ、養父の佐々木東洋より内科専攻に、との要望があったものの認められず、私費留学に切り替えられました。病理学は三位の新藤二郎に決まりました。眼科は四位から七位までの者に敬遠されたものか八位の梅錦之丞に回ってきました。ところが、莫大な借金を抱えて辞退したために、次の卒業生の神内由巳を選んだところ、専攻学科が眼科であることを知ると、眼科は数学が得意でなければ務まらない、と断りました。数学は梅が得意であると梅を推薦し、鳩首して借金の工面をして梅に決定しました。

佐々木を含めて4人は十一月二十日帰国するナウマンとともに横浜から出港しました。神内ともう一人、半井英輔は繰り上げ卒業となり、当該年度の卒業生は二十名とされました。以後卒業の年を試業を終えた十二月とするものと、学位を習得した翌年七月とするものとが雁行するのです。

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