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神の手は必要か[炉辺閑話]

No.4941 (2019年01月05日発行) P.11

小林順二郎 (国立循環器病研究センター病院病院長)

登録日: 2019-01-01

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マスコミに神の手と称される医師が登場するようになって久しい。神の手とは何か。

神の手として知られているのは、ハリウッド映画「ベン・ハー」に出てくるイエス・キリストの奇跡である。ベン・ハーの母と妹が業病にかかっていたのが、キリストが触れることによって病が治癒するのである。これが神の手の由来ではないだろうか。

1986年、FIFAワールドカップ準々決勝のアルゼンチン対イングランド戦。両チーム無得点で迎えた後半、ディエゴ・マラドーナは、左手の拳でボールをはたいて得点したが、主審はマラドーナがヘディングでボールにコンタクトしたと判断し、ゴールを認めアルゼンチンが勝利した。マラドーナは試合後、このプレーについて、「ただ神の手が触れた」と表現した。以後、サッカー界ではこれに類するプレーを神の手と呼ぶことになった。

医療の世界では、脳神経外科医の福島孝徳氏が手術の早さと正確性から「神の手」と呼ばれるようになったのが初めてだと思われる。それ以後いろいろな領域で、いわゆる名医のうち外科医や侵襲的治療を行う医師を、しばしば神の手と呼んでもてはやしている。しかし、もし神の手がキリストの手のごとく、すべての患者をその望み通りに治癒させることができることを指すとしたら、そのような神の手の医師はいないだろう。また、神の手がその医師にしかできない難しい手術法ができる医師の技術を指すとしたら、神の手は不要である。なぜなら、医療技術は広く誰にでもできるようにならなければ意味がないし、また、ならなければ広がらない。新しい手術法に関する論文を書くのは、その方法が広まり、自分だけでは治療できないあまたの患者を救うことができるように広めるために書くのである。

私はキリスト教信者ではないが、神の手は、神から人にゆだねられたものであり、善行を行うためにあるとする考えもある。心臓外科医の私としては、マスコミの言う神の手は必要ではないが、神にゆだねられた天賦の才として、日々努力を重ねて技術を高めていく手は必要と考えている。

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