株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

高木兼寛(19)[連載小説「群星光芒」321]

No.4911 (2018年06月09日発行) P.68

篠田達明

登録日: 2018-06-09

最終更新日: 2018-11-28

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

大正4(1915)年、高木兼寛は67歳で皇室より勲一等を授けられ、瑞宝章を賜った。

家族と親戚一同が受章を祝う席で兼寛は謝辞を述べたあと、来し方を語った。

「わしは部下の媒酌人を頼まれたとき英国流の教会結婚式に倣って華燭の典を神社で挙げたことがある。これがすこぶる好評で神前結婚式の始まりになったのじゃ。そういえば明治38(1905)年に有栖川宮様がパリから輸入したフランス製の自動車に魅せられて、5年後に国産車を1000円で購入した。以来、わが国初の国産車オーナードライバーというわけじゃ。洋服の利便さを説いてこの国の洋装の普及にひと役買ったこともある」

そのとき長話に飽きた幼い孫が、「お爺ちゃんのそのお話、もう何度も聞いたよ」とゴロンとでんぐり返しをしたので、一同大笑いして会が盛り上がった。

そんな兼寛一家の幸せな日々は、しかし長つづきしなかった。大正8(1919)年1月29日、ニューヨークの商社で働いていた3男の舜三が急死したとの訃報が届いたのだ。

遺体の移送から葬儀を終えるまで兼寛夫妻と長男喜寛は無我夢中で過ごした。

不幸はさらに重なった。3男の死から4カ月と経たない5月3日、東京慈恵医専内科教授の次男兼二が急性心不全をおこして39歳の若さで急逝した。兼二は共立東京病院の内科主任も兼ねていて過労が重なったのだ。うちつづく息子の死に兼寛は悲哀のどん底に突き落とされた。

なにをしても鬱々として気が晴れない。

懸念した喜寛の勧めにより、大磯の別荘で静養した。夏場はなんとかやりすごしたが、秋口に入って急性肺炎をおこし呼吸が苦しくなった。さらに腎炎まで併発して尿毒症におちいり、一時は危うかったが慈恵医院と共立東京病院からかけつけた医師たちの懸命な治療によって快方に向かい、正月は麻布の邸宅で迎えることができた。

3月になるとふたたび具合が悪くなり、ときどき割れるような頭痛に見舞われる。喜寛がつききりで手を尽くしたおかげで屋敷の周りを歩けるほど体調は戻った。

小康を保っていた大正9(1920)年4月13日午前6時半、起床して風呂を浴びたあと庭で散歩を始めた。しばらく歩いているうちに突然体が崩れ落ちた。驚いた付添いの書生が家人に報せて医師団が駆け付けた。

しかし意識は戻ることなく午後2時、冥界へ旅立った。享年72。死因は脳溢血だった。

3日後、東京港区の青山斎場で海軍葬が行われた。2500人の弔問客が参列して高木兼寛元海軍軍医総監の逝去を悼んだ。

宮内省より従二位と勲一等旭日大綬章が追贈され、遺骨は青山墓地に葬られた。

森 林太郎元軍医総監が設立した臨時脚気病調査会は兼寛が逝去した大正9年になおも存続していた。

同調査会の委員だった島薗順次郎陸軍軍医は陸軍兵士の麦飯兵食を主張したことから調査委員を辞任したのだが、のちに東京帝大医学部内科教授に招かれた。そこで神経病理学と栄養学の研究に傾注して「脚気はビタミンB1欠乏症によっておこる」と結論を下した。

大正13(1924)年4月8日に開かれた第29回臨時脚気病調査会では委員全員が一致して「脚気はビタミンB1の欠乏を主因として起こる」との最終結論に達し、調査会を解散した。

海軍医務局では軍医たちが集まって臨時脚気病調査会について論評しあった。

「臨時調査会を立ち上げた森 林太郎会長が亡くなって2年後に最終結論を出すとはずいぶん遅かったじゃないか」

「おそらく森局長が生きている間は挫折感を与えぬよう配慮したのだろう」

「いや、森局長は疾うに自分が支持した脚気中毒説や感染説が誤っていたと気づいたはずだ。それでなければ晩年の長く深い沈黙が肯けない」

「そうだ、森局長は無数の陸軍兵士の脚気死という取り返しのつかない惨禍に立ち竦んで沈黙を強いられたにちがいない」

その夕べ、長男の高木喜寛は母富子と一緒に父の墓前に立った。臨時脚気病調査会が下した結論を父に報告するためだった。

「陸海軍が半世紀あまりの間、脚気防止のために総力をあげた論争はこのほど漸く決着がつきました」

静まり返った墓地に喜寛の底力のある声がひびいた。

かたわらで手を合わせていた母がゆっくり立ち上がり、息子に目をむけた。

「お父様は陸軍と戦いなどなさいませんでした」と母は穏やかな口調でたしなめた。

「じゃあ、どうしてあんなにも長いあいだ陸軍軍医と論争してきたのです」

「お父様が戦ったのは長らく海員さんたちを悩ませた脚気病です」

母は静かに言葉を継いだ。

「日向国の農家に生まれたお父様は盆正月のほかに白米御飯など口にされたことはなかったそうです。いつも同じ境遇に育った海員さんたちのことで頭が一杯でした」

母の話に喜寛は口を噤んだ。

「海員さんたちが食費を削って郷里の親御さんに仕送りしているのを止めさせたときなど、いくら海員の命を守るためとはいえ身を切るように辛い、と嘆かれたのが忘れられません」

「……」

「お父様が貧しくて医療に恵まれない人たちに寄り添う施療病院を建てたのも、病人を看護するナースを育てる学校を開いたのも、お父様の体の芯に弱い立場にある人たちへのどっしりとして揺るぎない愛があったからです」

父が貧窮の人々に慈しみの心を抱いて接した深い愛情が喜寛の胸に沁みた。父が示された遺命を受けついで生きていこうと強く思った。

それは天命と言うほうが父の遺志にふさわしかった。

「父上、これから私の往く道をしかと見守って下さい」

喜寛は暗くなった雲間に顔をのぞかせた三日月を見上げてそう呼びかけた。

関連記事・論文

もっと見る

関連書籍

関連求人情報

もっと見る

関連物件情報

もっと見る

page top