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【私の一冊】野球は人生そのものだ

No.4907 (2018年05月12日発行) P.63

齋藤 学 (合同会社ゲネプロ代表CEO)

登録日: 2018-05-08

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戦後日本最高のスーパースターの自伝。長嶋監督の明るいユーモアあふれるコメントやパフォーマンスが、人並みはずれた努力のたまものであったことがわかる一冊。(長嶋茂雄著、日本経済新聞出版社、2009年刊)

永遠のロールモデル

ある新聞記者が「長嶋さんのストライクゾーンはどこですか?」と尋ねたところ「来た球すべてです」と答えた。影響されやすい私は、離島医療のストライクゾーンは「来た患者すべてです」と答えるようになった。デビュー戦で四打席四三振を奪った金田正一氏は言う。「長嶋はみんなバットを振ってきよった。やつの迫力はすごかったよ。打ち取りながら怖かった」と。

立教大学時代から本気でメジャーリーグで思う存分プレーしてみたいという夢が長嶋さんにはあった。ヤンキースのジョー・ディマジオに憧れ、連続写真を壁に貼っては素振りをした。その後、当時ドジャースのオーナーだったウォルター・オマリー氏が正力松太郎氏に「君のチームのナガシマ君を私のチームに預けてもらえないか。二年経ったら必ずジャイアンツに返すから」と直談判したことが実際にあった。影響されやすい私は「離島医療はメジャーリーグ。いつかは離島で思う存分プレーしてみたい」と思った。

巨人軍の監督になってからも「プロ野球というものはファンの方に楽しんでもらわなくてはいけない。マスコミの皆さんとは共存共栄、切っても切れない間柄だ。球場に行きたくても行けないファンはどうするか」とマスコミとのあり方を考え続けた。

最終章でこう振り返る。「波乱だらけの野球人生だったような気がする。その野球人生の一番骨格になっていたものを挙げろと言われれば、私は子供のころの母の手作りのボールと砂押監督(立教大学野球部)の猛練習と言うだろう」

自身の夢にまっすぐで、常にフルスイングで、ファンを一番に考え、恩師や親への感謝の念を忘れない。栄光の背番号「3」は大きな背中である。

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