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源流を求めて [炉辺閑話]

No.4837 (2017年01月07日発行) P.48

山崎正寿 (漢方京口門診療所所長)

登録日: 2017-01-02

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昨年5月に広島市において、私が会長として第117回日本医史学会学術大会が開催されました。広島県は日本医史学会には大変因縁の深い地域です。明治25 (1892) 年に富士川 游先生(広島市安佐南区長楽寺出身)によって、「私立奨進医会」が発足されたのが日本医史学会の前身です。昭和3(1928)年には東大精神科教授の呉 秀三先生(広島県呉市出身)が初代日本医史学会理事長となられました。

また、富士川・呉両先生は広島県医師会の前身である「芸備医学会」も創設されました。そのような意味合いもあって、テーマは「吉益東洞ほか、広島県の先哲の事跡」として、漢方医学の泰斗である吉益東洞を中心にした医史学上の偉人の事跡を顕彰することになりました。

私は漢方医学を専門としますので、江戸時代中期に広島で生まれ、京都にて名を挙げ、日本の漢方医学の礎をつくった英傑とされる吉益東洞について講演をしました。吉益東洞の業績については、多くの人が研究をされていますが、そのような業績を生むに至った思想的な背景、人とのつながりは、特に取り上げて研究されたことは少ないと思います。

江戸中期という時代は、武家社会として儒学がその思想的主流となっていました。日本の儒学の歴史およびその発展は、丸山眞男氏や吉川幸次郎氏が指摘されたように、中国とは異なった日本の独自性を持った思想へと展開していったと言われます。その最大の貢献者は京都の伊藤仁斎・東涯父子と江戸の荻生徂徠でした。いわゆる古義学派や古文辞学派です。彼らは理論を重んぜず、事実と言葉の本来の意義を重んじて、武家だけでなく様々な階層の人々に受け入れられました。こうした姿勢は思想・哲学や文学・芸術の領域に限らず、医学の世界にも多大な影響を及ぼしました。

当時の漢方医学の古方派といわれる名古屋玄医、後藤艮山に限らず、その後出てきた吉益東洞は徂徠派の人々との深い交流の中から新しい日本の漢方医学を生み出していきました。それは中国医学をそのまま受け入れ、実践してきたそれまでの漢方医学とは別物になっていきました。

事実を重んじる姿勢は古方派の人々の中から、当時の新しい蘭学への関心を引き出し、古方派漢方医であった山脇東洋に、わが国初の人体解剖を行わせることになりました。

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