1929(昭和4)年に佐藤春夫が発表した『更生記』(『定本 佐藤春夫全集第7巻』、臨川書店、1998 年)は、古典的なヒステリー症状を呈する女性を、大学の助教授が治療するという作品である。
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医学生の大場は、ある夜、線路のそばにうずくまっている20代半ばの女性に出会う。終電の後だったから事なきを得たものの、女性は自死しようとしていたのである。結局、この女性を、大場が姉と暮らす家で世話をすることになるが、彼女は夜明け前に、「どこか、御近所に赤ちゃんがいらっしゃいますね」と言い出した。しかし、大場や姉には赤ん坊の声など聞こえなかったため、この女性には幻聴があると考えた大場は、大学で精神病学を専攻している助教授の猪股に相談したのである。
早速、大場の家を訪問した猪股は、そこで意識を失っている女性を診て、ヒステリーに見られる後弓反張と診断した。「よく見たまえ。あれが所謂ヒステリー弓だ」、「頭を反らして後頭部と足とで全身を支えて、全身が弓状に張り切って曲っている」。
しかも猪股は、この女性の発作について、「着物の裾などは注意をしてそうはしたない様子はしていない。癲癇やなどと違ってちゃんと意識して倒れたのだからね」と説明するなど、てんかん発作とヒステリー発作の違いを、きちんと区別している。さらに猪股は、この女性の意識喪失についても、「この種の患者では眠りながら意識が比較的明瞭で、聴覚過敏な特別の病型がある」と、ヒステリー性の意識障害の特質を語ったり、その後女性が乳房の痛みを訴えたときに、「あなたは気がつかないでしょうが、まだこのあたりも痛い筈です」と言いながら卵巣部を押すと、これも乳房痛とともにヒステリーに特異的な症状である卵巣痛が出現するなど、猪股はヒステリーの症候にかなり精通していることがわかる。
それは、とりもなおさず作者の佐藤春夫がヒステリーに精通していたということでもあるが、実際、この作品には、「ひとりで居る時には普通の状態で臥床しているらしいのに、人が行くと苦悩の表情を示した」、「何か話かけるとわざととんちんかんの返事をした。当意即妙症と名づける現象であろう」など、「妖艶である上に、得体の知れないところに魅力がある」という魅惑性も含めて、教科書的なヒステリーの特徴が正確に描かれている。
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