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軍医として生き抜いた父に捧げる:その奇跡、そして「目の前の命に全力を」 [エッセイ]

No.4759 (2015年07月11日発行) P.70

村田厚夫 (健和会大手町病院救急科顧問)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-15

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  • 平成27年、戦後70周年を迎えた。あの大東亜戦争で多くの日本人が亡くなった。小生の父も、陸軍軍医として出征し、奇跡的に生還・復員した。当時出征され、無事に戻られた方も高齢となり、ご存命の方も数少なくなっていると思われる。決して忘れてはいけない歴史(日本の近現代史とも言う)であり、できれば小生と同様に、軍医として出征された父・祖父をお持ちの医師の方と一緒に「あの戦争は一体何だったか?」「出征した親から受け継いだ遺伝子」などについて語り合えることを期待している。



    父は、昭和17(1942)年九州帝国大学医学部を卒業した。18(1943)年1月8日、陸軍軍医少尉として、門司港から三池丸に乗船し、南方戦線であるニューブリテン島ラバウルに向かい、第67兵站病院に赴任した。既に日本海軍は17年6月、ミッドウェー海戦で大敗し、ガダルカナル島には、17年8月7日に米海兵隊が上陸している。そのようなことは露知らず、父は南方戦線の兵站病院で活動した。18年3月末、病院船「うらる丸」でブーゲンビルへ移動し、第17軍第25旅団に配属され、ガダルカナルから撤退してきた兵士を診療した。4月下旬、司令官の命令で、単身ガダルカナル島近くのサンタ・イザベル島に派遣された。

    その間に、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死(撃墜)された。ガダルカナル島からの撤退作戦(帝国陸軍は「転進」と発表しているが)は18年2月から行われた(ケ号作戦)。ガダルカナル島にいた歩兵の中でも、福岡出身者を中心とした歩兵第124連隊は勇猛果敢・精鋭部隊として知られており、無事にガダルカナル島を脱出できたのであるが、その後に、さらなる悲劇が彼らを迎えることになる。

    その後、父たちは南方戦線から海路パラオ、フィリピンを経由して、18年5月頃に仏印(現・ベトナム)のサイゴンに移動した。その頃には米軍潜水艦も多く、「よく無事にサイゴンに行けたなぁ」と父も言っていた。そして、帝国陸軍は最後の賭けとして、インド東部のインパール攻略を目指す。父の部隊もタイに移動し、18年10月頃、バンコクで再編成された第31師団に属することになる。もちろん、歩兵第124連隊付きである。移動は主に列車であり、映画にもなったクワイ川も渡り、10月末にはビルマに入っている。まだその頃は、泰緬鉄道は無事だったようである。

    そして19(1944)年3月、あの「コヒマ・インパール作戦」(ウ号作戦)が実施されることになる。第31師団は「烈師団」と呼ばれ、司令官は「抗命」として名を残された佐藤幸徳中将である。写真を見ると、小太りで温厚そうな方であり、父はその司令官の元にいたので、生き延びることができたのかも知れない。

    第31師団の任務は「コヒマ」占領である。インパールへの重要な陸路補給地点であり、ビルマ方面軍・第15軍(司令官は牟田口廉也中将)は、作戦として、コヒマは第31師団「烈」(兵力約1万6600)、インパールは第33師団「弓」(兵力約1万7000)、第15師団「祭」(兵力約1万6000)、これに軍直轄部隊約3万6000の合計約8万5000人の兵士がビルマからコヒマ・インパールを目指すことになったのが19年3月15日である。途中には2000~3000m級の険しいアラカン山脈。軽井沢から浅間山を越えて、日本アルプスを越えて、新潟に行くようなものであり、そこを主に徒歩で重たい装備を担いで進軍した。父は、幸い大学時代山岳部にいたからであろうが、兵士の多くが重たい荷物を少しずつ置いていくこともあったそうである。

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