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英医・ウィリスと西郷隆盛[炉辺閑話]

No.4941 (2019年01月05日発行) P.90

金津赫生 (つくば市)

登録日: 2019-01-06

最終更新日: 2018-12-26

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ウィリアム・ウィリスが江戸から薩摩に転じて150年が経過したが、その経緯は謎のままである。ドイツ医学を採用するにあたって障害となり、薩摩藩が救いの手を差し伸べたというのが通説となっているが、ウィリスは副領事の身分のまま1年の賜暇を利用しての赴任であること、大病院が軍務局あるいは東京府の管轄下にあった頃、既に薩摩行きを決意したと推察されること、などからウィリスの大病院・医学校離職とドイツ医学採用とを関連づけることには無理がある。

1869(明治2)年2月、薩摩藩の参政の一人に就任した西郷は5月1日、鹿児島を発し6日に神田橋門内の旧荘内藩邸に入った。外務官から英医・シッドルの薩摩藩招聘許可が下りた4日後のことである。しかし、シッドルは婚約の事情が絡み薩摩行きを断念したようである。西洋病院設立を計画していた薩摩藩当局は、交渉相手を本来の候補者ウィリスに切り換えたと思われる。そして、西郷に与えられた役割はウィリスの上司、パークス英公使に薩摩招聘の内諾を得ることであったと推察される。採用の条件は提示済みであったから、ウィリスを医学校・大病院に居づらくさせる工作が始められたのではなかろうか。イギリスの兄にウィリスが大病院内で困難にあっていると書き送ったのはその頃である。

海軍軍医の経歴があり、日本医史学会の設立にも関わった佐伯理一郎に「海軍軍医制度の創設者・石神豊民氏について」という論考がある(「中外医事新報」1261、1262号)。その一節に「戊辰戦争後の荘内藩の処置が寛大であったのは石神が西郷に執り成したからである」、「荘内藩池田侯も其れを徳として藩内の絶家していた石神家を徳蔵の弟、六郎に継がせた」という伝聞のまた伝聞の記述がある。ウィリスがパークスに訴えたa little rascalこと徳蔵のウィリスの薩摩藩招聘、ひいては海軍軍医制度創設における、表に出せぬ功績がここに語られている。

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