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夢野久作の『ドグラ・マグラ』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.4937 (2018年12月08日発行) P.68

高橋正雄 (筑波大学人間系)

登録日: 2018-12-09

最終更新日: 2018-12-04

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1935(昭和10)年に発表された夢野久作(1889~1936)の『ドグラ・マグラ』(『夢野久作全集9』、筑摩書房刊)は、自分がどこの誰かもわからない状態で主人公が九州帝国大学精神科の病室で目覚めるという場面で始まるが、そこで語られるのは九大精神科の教授・正木敬之という医師の話である。

主人公はこの時、謎めいた正木教授についての話を、大学で彼と同期だった若林という法医学の教授から聞かされるのだが、若林教授は、正木教授のことを、概略次のように語った。

正木教授は、「吾国のみならず、世界の学界に重きをなした」精神科医で、それまで行き詰っていた精神病の研究に革命を起こすような新学説を発表した「偉大な学者」である。正木教授は、精神病者を魔物に憑かれた者として焚き殺したヨーロッパ中世のような残酷な処遇が、20世紀の今日でも行われているという事実に憤慨して、多くの精神障害者を救うべく、空前の新学説を樹立した精神科医なのである。

千葉県生まれの正木教授は、1903(明治36)年に九大医学部の前身である京都帝国大学・福岡医科大学の一期生として入学し、1907(明治40)年に卒業した。正木教授は、学生時代から頭脳の非凡さでは傑出した存在で、「一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いて」いたが、彼が大学創立3周年の記念祝賀会で学生代表として行った演説は、次のようなものだった。「学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽る事でもなければ、花札を弄ぶことでもない。学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。これは日本の学界の一大弊害と思う」。

正木教授は学生時代から、学位目的の研究を批判するほどの見識を持っていたのである。

また、彼は、「20年経つ中には、もしかするとこの日本に一人のスバラシイ精神病患者が現われるかも知れない」、「その患者は、自分の発病の原因と、その精神異常が回復して来た経過とを、自分自身に詳細に記録、発表して全世界の学者を驚倒させる」と、今日の当事者研究の魁をなすような発言もしている。

正木教授は卒業論文も第1位の評価を得て恩賜の時計を拝受することになるが、卒業式の当日に行方不明になった。

正木教授はそれから8年間、欧州各地を巡遊して、墺、独、仏の3カ国で学位を取得し、1915(大正4)年に帰朝するや漂浪生活を始めた。彼は、全国の精神科病院を訪問したり、各地の精神病者の血統に関する伝記、伝説、記録、系図などの研究材料を集める傍ら、『キチガイ地獄外道祭文』と題する小冊子を、一般民衆に配って廻ったのである。

彼が配布した小冊子には、「現代社会に於ける精神病者虐待の実情と、監獄以上に恐ろしい精神病院のインチキ治療の内幕が曝露」されていた。彼は、自ら木魚を敲き、祭文歌を唄いながら、これを政府や学校などに頒布したのだが、そこには当時の精神障害者に対する処遇が、次のように記されていた。「骨肉の連中の中でも。ホンニ心から真情籠めて。治療すつもりで介抱するのは。実のところが母親ばっかり」、「ほかの骨肉の連中と来たなら。同じ血分けた父兄弟でも。実に冷淡無情なものだよ」、「たとい立派に治癒ったようでも。いつが何時、再発するやら。油断がならぬと今の世までも。昔ながらにいうその上に。あれは血統じゃ扨おそろしやの。何の祟りじゃ応酬じゃなんどと。眼指し指さしするのが世間じゃ」。

正木教授は、肉親の情といっても、真心こめて介護をするのは母親だけであることや、一旦治ってもいつ再発するかもしれないという懸念から、世間では血統や祟りが噂されがちなことなどを指摘しているのである。

もっとも、こうした祭文歌の内容は、唐や天竺、西洋の事情と断っていたものの、あまりに露骨な内容だったため世間からは黙殺されたが、正木教授は意に介さなかった。

しかし、卒業して18年後の1924(大正13)年3月末に突然、法医学の若林教授室を訪ねた正木教授は、その後九州大学精神科の主任教授となって、かねてより準備していた「狂人の解放治療」に着手する。そして、この画期的な治療を始めて4カ月後の1926(大正15)年10月20日、彼は大学裏手の海岸で溺死体となって発見されるのだが、それを報ずる新聞の号外には、「九大精神病学教授正木博士投身自殺す」という大見出しと、「同時に狂人の解放治療場内に勃発せし稀有の惨殺事件曝露す」という小見出しのもとに、以下のような記事が掲載されていた。「昨19日正午頃、同精神病学教室に於ける同博士独特の創設に係る『狂人の解放治療場』内に於て、一狂少年が一狂少女を惨殺し、引続いて場内にありし数名の狂人に即死、もしくは瀕死の重傷又は軽傷を負わしめ、これを制止せむとした看視人までも重傷せしめた事件が端なくも曝露した」。

正木教授は、自ら考案した実験的な治療法で殺人事件が起きた翌日、自殺したのである。

このように、『ドグラ・マグラ』に登場する正木教授は、当時の非人道的な精神医療を批判し、世界的にも類例のない解放的な治療法を開発した先進的かつ独創的な精神科医として描かれている。彼は、精神障害者に対する差別と偏見が強かった当時、一般社会に対する啓発活動を行うなど、精神医学の研究と実践に生涯を捧げた人道的な医師なのである。

しかも彼は、「吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在る」、「地上のほかの狂人は治療るとも、吾輩の精神異状だけは永遠に全快しないだろう」と語るように、自分自身の病的な部分を自覚しているため、医師と患者の対等性というものを自ら体現しているというだけでなく、彼もまた、優れた病者は優れた治療者たりうるという原則に当てはまる人物の一人だったことがわかる。

正木教授は、自分にも病的な部分があることを自覚したればこそ、精神障害者に共感的な姿勢を保ちえたのかもしれないし、正木教授のような天才的な人物に病的な部分があるという設定自体、天才と狂気の関係に関する久作の病跡学的な関心を示唆するものであるが、その正木教授も、実験的な治療法を試みる中で患者同士の殺人事件を起こしているのだから、今日的な研究倫理という観点から見れば、至らぬ部分があったことになる。

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