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「衛生」に関する管見[エッセイ]

No.4928 (2018年10月06日発行) P.66

佐藤 裕 (国東市民病院)

登録日: 2018-10-07

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以前、本誌No. 4794(2016年3月12日)に、「三浦梅園著『養生訓』の現代的意義」と題した拙文を掲載したが、その『養生訓』の中に今日普遍的に使われている「衛生」という言葉を見出したので、今回はこの「衛生」という言葉について管見を述べたい。


さて、「衛生」を国語辞典などで紐解くと、「健康の維持と向上を図るとともに、疾病の予防と治療に努めること」と説明され、歴史的には、1874(明治7)年に初代医務局長に就任した旧肥前大村藩士で適塾出身の長與專齋(1838~1902、図1)が、「Hygiene」の訳語として荘子の著した『庚桑楚篇』にある「衛生の経」から採ったとされている。この点に関しては、長與の自伝『松香私志』に「荘子の庚桑楚篇に衛生といへる言あるを憶ひつき、本書の意味とは較々異なれども字面高雅にして呼聲もあしからずとて、遂にこれを健康保護の事務に適用したりければ、こたひ改めて本局の名に充てられん事を申出て衛生局の称は茲に始めて定まりぬ」と述べられている。なお、そのおおもとの「Hygiene」は「医神アスクレピオス(Aesculapius)」の娘のひとりで、特に「(女性の)健康を守る神」として崇められた「ヒュギエイア(Hygieia)」に由来する。

 

閑話休題。

さて、前述した荘子の『庚桑楚篇』というのは、老子の身の廻りの世話をしていた弟子の一人であった庚桑楚に関する言行録である。その中に、その庚桑楚の弟子の南栄趣という者が老子を訪ねて、「生命を全うするにはどうすればいいのですか」と尋ねた際に、老子が「さかしらな心を持たず、外物に対して無心で順う赤子のようにあることが、『生命を全うする根本の道』すなわち『衛生の経』に他ならない」と答える場面がある。「Hygieneという言葉をどういう日本語で表現すべきか」と思い悩んでいた長與は、ここから「衛生」という語句を採ったのである。

すなわち、長與の自伝『松香私志』の中に「西欧諸国視察中ドイツを訪れた際、よく“Gesundheitpflege”というような言葉を耳にした。……。西欧諸国には国民の健康保護を担当する行政組織があり、これは行政が国民への危害を取り除き国家の福祉を全うする仕組みのようである。……。また、人間生活の利害にかかわるあらゆるものを国が取り扱う“Sanitats-Wesen”とか“Öffentliche Hygiene”と呼ばれる行政上の制度であるが、今の日本にはこういう制度がない。……。そこで日本にそういう制度を立ち上げ、根付かせようと決心した」とある。1871(明治4)年に岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダにおいて医学や医療行政(今日の衛生行政)の実情を視察した長與は、その当時ドイツで行われていた“Öffentliche Gesundheitpflege”やオランダの“gezundheidsleer”という国家施策を目の当たりにして、その施策の持つ重要性を感じ取ったことから、その概念を端的に表す言葉を「衛生」と置き換えて、日本に移入したのである。そして、文部省所管の医務局が内務省に移管されたことを受けて、件の長與が初代衛生局長に就任した。

なお、「衛生」という言葉に関しては、明治初期の医療人でもあり京都の産業界で活躍した明石博高(1839~1910)が、オランダ語の“gezundheidsleer”という言葉の日本語訳として造語したとする異説もあるが、ドイツ語の“Öffentliche Gesundheitpflege”は逐語訳すると「Öffentliche(公的な) Gesundheit(健康)pflege (世話ないし育成)」であり、意訳すると「健康の育成(維持・向上・増進)を図る公共的な施策」とでも言うべきで、どちらかというと、今日「公衆衛生」と訳されている“public health”に相当するようである。

しかし、歴史的にみると、件の長與に先だって「衛生」という言葉を使っていた人物がいた。もっとも「えいせい」ではなく「えせう」と読ませているが、その人物が江戸時代中期、豊後の国杵築藩領の国東半島に生まれた哲学者・天文学者兼儒医の三浦梅園(1723~1789)である。この梅園が1778(安永7)年に著した『養生訓』の中で「衛生」という言葉を用いている。『養生訓』と言えば、筑前黒田藩の貝原益軒(1630〜1714)のものが有名で、日常生活を送る上で「養生(生を養うこと)に役立つ方法」をこと細かに記述しているが、その中には件の「衛生」という言葉は一言も出てこないのである。

一方、梅園は『養生訓』の中で今日とほぼ同様の「生(命)を衛る:『健康を守り、養い、育てる』ないし『健康を保持し、病気を予防する』」という意味合いで、「衛生」という言葉を使っている。その代表的文言が「つねに衛生の道をしり、身を壮健にたもたずんば、……」や、「衛生保養の道、いつとても怠るにはあらざれども……」である(図2)。中国から渡来した数多くの古典籍を読破していた梅園が遺した蔵書の中には老子や荘子も含まれており、梅園が荘子の『庚桑楚篇』にある「衛生」という言葉を正しく理解して、儒医にとしての立場から自著に採り入れて使ったであろうことは想像に難くない。

なお、各医学会のホームページを閲覧すると、1947年に設立された「日本公衆衛生学会(Japanese Society of Public Health)」は、長與と同じように「衛生(学)」という言葉は荘子の『庚桑楚篇』にある「衛生の経」に由来するとしているが、意外なことに「日本衛生学会(The Japanese Society for Hygiene)」のほうは、鎌倉時代の1289年に丹波行長が撰述した『衛生秘要抄』の「衛生」に由来するとしている。言うまでもなく、「養生(の法)」の背景には「無為自然」を重視する老荘思想があるので、丹波行長も荘子の中の「衛生」が念頭にあったものと思われる。なお、この丹波行長という人物は代々典薬頭・鍼博士(宮廷医官ないし侍医)として朝廷に仕えた丹波氏の出で、行長が撰述した『衛生秘要抄』は、1302年に僧医梶原性全(1266~1337)が仮名まじり文で著した『頓医抄』とともに、日本において最も古い部類の予防医学書、すなわち「生(命)を衛(る)医学書」として認知されている。さらに、この丹波氏は渡来した唐代の漢籍医書を参考にその当時の医学知識全般を網羅した『医心方(全30巻)』を編集して、平安時代の984年に朝廷に献上した功績により典薬頭に採りたてられた丹波康頼(912~995)を始祖とする医家であり、その子孫から多くの名医を輩出していることを付記しておく。


以上、三浦梅園の『養生訓』の中に「衛生」という言葉を見出したので、現代医療においても重要な位置を占めている「衛生」について管見を述べた。

【参考】

▶ 伴 忠康:適塾と長与專斎―衛生学と松香私志. 創元社, 1987.

▶ 松本 順, 他:松本順自伝・長与専斎自伝. 小川鼎三, 他 校注. 平凡社(東洋文庫), 1980.

▶ 貝原益軒:養生訓(全現代語訳). 伊藤友信, 訳. 講談社(講談社学術文庫), 1982.

▶ 梅園学会:三浦梅園「養生訓」:翻刻と現代語訳・補注・解説. 梅園学会報特別号, 2014.

▶ 池田和久, 訳:荘子(下)全訳注. 講談社(講談社学術文庫), 2014.

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