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森 鷗外の『伊澤蘭軒』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.4927 (2018年09月29日発行) P.68

高橋正雄 (筑波大学人間系)

登録日: 2018-09-30

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1917(大正6)年に森 鷗外が発表した『伊澤蘭軒』(『森鷗外全集第5巻』、筑摩書房刊)は、江戸時代の儒医・伊澤蘭軒の史伝であるが、そこに描かれているのは、自らも病を抱えながら生きた医師の姿である。

蘭軒は、1777(安永6)年に本郷・真砂町に生まれた、渋江抽斎の師に当たる医師である。蘭軒は、頼 春水や菅 茶山とも交流するなど、「詩を善くし書を善くした」医師であるが、最初に彼の病が記されるのは、1801(享和元)年である。この年の2月に書かれた詩に、「頓忘病脚自盤旋」という句を見出した鷗外は、「蘭軒生涯の大厄たる脚疾が、早くこの頃に萌していたらしい」、「わたくしは酸鼻に堪へない。蘭軒は今僅に23歳にして既に幾分かその痼疾に悩まされていたのである」と、若くして病を得た蘭軒に同情している。

以下、『伊澤蘭軒』の中の蘭軒の病に関する主な記述を追っていくと、次のようになる。

①1806(文化3)年には、「蘭軒が長崎へ往った年である。蘭軒が能くこの旅を思い立ったのを見れば、当時足疾は猶軽微であったものと察せられる」と記して、30歳の頃の蘭軒の足疾はそれほど重篤ではなかったと考えている。

②1809(文化6)年、33歳のときには、「蘭軒はこの年12月下旬より痼疾の足痛を患うへて、医師谷村玄珉の治療を受けた」とあり、翌7年に「吾亦昔年漫踏過」という詩句があることについては、「素直に聞けば、余りに早く老いたのを怪みたくなる」、「34歳の蘭軒をしてこの語をなさしめたものは、恐くはその足疾であろうか」として、持病の足疾が蘭軒に老いの自覚をもたらしたのではないかと推測している。

③1813(文化10)年、37歳のときには、「この秋の蘭軒が病は例の足疾であった」として、「晩秋病中雑詠」と題する詩が7首書かれていると指摘する。また、1816(文化13)年の詩に、「余今年四十、以脚疾不能起坐已三年」とあることから、「蘭軒はこの冬よりして漸く起行することが難渋になった。躄になりかかったのである」として、当時の蘭軒の心中を次のように推し量っている。「蘭軒は医である。自らプログノジスの隻眼を具している。嘗て茶山に『死なぬ疾』を報じたように、今又起行の期し難きを曉ったであろう。その胸臆を忖度すれば、真に愍むべきである」。

なお、この文化10年の冬については、12月11日に湯島の薬湯に行ったことや、「蘭軒はこの年病の為に困窮に陥って、蔵書をさへ沽らなくてはならぬ程であった」と、蘭軒が病によって経済的な困窮に陥ったことも記されている。

④翌1814(文化11)年には、「蘭軒の病候には消長があって、時に或は起行を試みた」、「正月の末に足の痛が少しく治したので、蘭軒は又出でて事を視ようとしたと見える」、「蘭軒は此の如く猶時々起行を試みた。そして起行し得る毎に公事に服した。後に至って両脚全く廃したが、蘭軒は職を罷められなかった」など、悪化する病と折り合いをつけながら医師として勤めたという記述がある。

⑤1815(文化12)年には、重症化する蘭軒の病に対する周囲の配慮が、次のように記されている。「『朝不坐』も亦阿部侯の蘭軒に与えた特典である。初め蘭軒は病後に館に上った時、玄関から匍匐して進んだ。既にして輦に乗ることを許された。後には蘭軒の轎が玄関に到ると、侍数人が轎の前に集り、圓い座布団の上に胡座している蘭軒を、布団籠に手舁にして君前に進み、そこに安置した」。

⑥1816年には、「足疾のために早く老いた伊澤の感情は、将に古稀に達せむとする菅の感情と相近似することを得たのである」と、下肢の障害が蘭軒を老成させたとする病の心理的な影響が記されている。

また、3月には「疝積足痛」のために3週間薬湯の願いを出していることや、それにもかかわらず蘭軒は落ち込まなかったとして、「蘭軒は足疾はあっても、心気爽快であったと見え、初夏より引き続いて出遊することが頻であった」、「この夏病蘭軒を乗せた『籃輿』は頗る忙しかったと見える」などと記されている。

蘭軒は、下肢の障害を抱えていても、人生を楽しむことを忘れない人だったようである。

⑦1823(文政6)年には、「蘭軒は既に47歳である。且蹇である。これに応ずるに忍辱を以てし、レジニアションを以てするより外無い」と、鷗外は、治すことのできない障害には、諦念や忍耐をもって臨むしかないと考えている。

⑧1829(文政12)年は蘭軒の没年である。蘭軒は、この年の2月15日に友と会して詩を賦したものの、3月17日には没している。病名は不明で、2月5日に亡くなった妻と同じ熱病に罹ったという証言もあるが、鷗外はそれまでの蘭軒の人生を振り返って、「足疾は少壮の時よりあって、蹇となってからも既に17年を経ている」として、足疾が直接の死因ではないと考えている。

このように、鷗外は蘭軒の50年余りの人生を語った後に、蘭軒の人間性を彷彿とさせるようなエピソードを幾つか紹介している。

そのうちのひとつは蘭軒の潔癖症で、鷗外は、「蘭軒は脚疾の猶軽微であった時は、常に手に箒を把って自ら園を掃っていた」、「又居室の潔ならむを欲した」と語っている。
蘭軒は、その詩文の才のみならず、潔癖性という点でも、鷗外と似たところのある人物だったのである。

もうひとつ注目されるのは、「蘭軒が医の職を重んずるがために、病弱の弟子を斥けた」ことである。ある人から、自分の子どもが「生れつき虚弱」であるがゆえに、武芸よりも医術を教えたいと言われた蘭軒は眉をしかめ、「医は司命の職と云って、人の死生の繋る所だから、その任は重い。医の学ぶべき事は極て広大で、これを窮むるには人に超えた力量がなくてはならない。御子息が御病身なら、何か医者でない、外の職業をおしこみなさるが好い」と答えたという。

若い頃から足疾に悩まされ、晩年は障害者として生きなければならなかった蘭軒であるが、彼自身の医業はそのことによっていささかも損なわれなかったという自負が語らせた言葉であろう。鷗外が、「蘭軒の病弱はその形骸にあって、その精神にはなかった」と語っているように、蘭軒の生涯は、病を抱えながらも人は健全に生きられること、いわば健全ならざる身体にも健全な精神は宿りうることを示した生涯とも言えるが、鷗外は、病みながら生きたことが蘭軒の医師としての考え方に与えた影響については、言及していない。

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