株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

漢方医[炉辺閑話]

No.4889 (2018年01月06日発行) P.111

増﨑英明 (長崎大学理事、長崎大学病院病院長)

登録日: 2018-01-07

最終更新日: 2017-12-21

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2018年は明治元(1868)年から150年になる。江戸時代はいっさいの修行や学問なしに医師になれた。無資格の医者がいたということではなく、資格そのものが存在しなかった。医学部で習うというような教育制度はなかったし、まずもって医師免許というものがなかった。誰でも医者の看板を上げることができたということは、つまり、医者は全員が無資格だったわけだ。

当時は漢方が医療の主流であった。それを担ったのは無免許の医師たちである。だからこそ江戸時代の医療は理屈ではなかった。治せる医者か、治せないか。その一点に世間の目は向いた。患者を治せば名医、治せなければ藪医者である。一方で、確実に病気を癒すことのできる医者は神とも崇められたに違いない。そういう存在であった花形漢方医に遠田澄庵というものがあった。彼の名前は、長與專齋の『松香私志』や石黒忠悳『懐旧九十年』、森 鷗外『渋江抽斎』などに見られる。

遠田澄庵は一介の町医者であるが、脚気治療の名医として盛名を轟かせていた。長與專齋は「牛込に遠田澄庵なる老医あり。脚気の治療に妙を得てその薬剤を服するものは一人として治せざるなく、この一病にかぎりては無類の名医なりとその名声一時に高かりけり」と書いている。徳川家定が脚気衝心で危うくなったとき、西洋医(伊東玄朴、戸塚静海)と時を同じくして奥医師(法眼)に登用された。次の徳川家茂は大阪城で脚気を発症したが、そこにも派遣されている。やがて天皇から遠田澄庵の名前が出る。自身が重い脚気に悩まされていたのである。「朕聞く、漢医遠田澄庵なる者あり、その療法、米食を断ちて小豆・麦等を食せしむと、是れ必ず一理あるべし(『明治天皇紀』)」。

澄庵の拝診は実現しなかったが、侍医たちは転地療法以外に手がなく、そのため天皇の不信感は増大し、ついには診療拒否にまで発展したとされている。脚気と言えば森 鷗外が思い浮かぶ。澄庵の孫の嫁ぎ先は赤松氏で、その姉・赤松登志子は森 鷗外の最初の妻である。つまり、鷗外と澄庵は縁戚ということになる。鷗外がそれを知らないはずはないから、『渋江抽斎』に澄庵を登場させる場面では、何らかの感慨があっただろう。明治の東京は案外に狭い世界だったことを思わせて興味深い。

関連記事・論文

もっと見る

関連書籍

関連求人情報

もっと見る

関連物件情報

もっと見る

page top