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農村医学と公衆衛生学[炉辺閑話]

No.4889 (2018年01月06日発行) P.38

青木一雄 (琉球大学大学院医学研究科衛生学・公衆衛生学講座教授)

登録日: 2018-01-03

最終更新日: 2017-12-21

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昨年、第66回日本農村医学会学術総会(2017年10月5~6日)を沖縄県宜野湾市で開催させて頂きました。本学術総会の開催にご支援、ご協力頂いた関係者の皆さまに衷心よりお礼申し上げます。

戦前(~1939年)の農村医学は、農村地域に特有な疾病や衛生問題などを扱う医学の一分野であり、農村地域に多い諸疾患を予防し、農民の健康増進を図ることを農村衛生と呼んでいました。戦前の日本の農村生活は、貧困な経済状態と過重労働、不衛生な生活環境がその代名詞でありました。このような生活をしていた人々に健康障害が惹起され、いわゆる〈農夫症〉や〈農民の早老〉をはじめ、多くの〈農村病〉が多発し、特に、種々の感染症や寄生虫疾患、栄養不良、栄養不足症が広くみられました。

戦中(1939~1945年)から戦後(1945~1952年)の農村医学は、林 俊一先生が農村医学の課題を「農村の保健衛生状態が詳細に報告され、その社会的=医学的病因が鮮明にされること」(1944年)と述べています。戦後、1947年の第1回長野県農村医学研究会(若月俊一先生)、1951年の北海道農村医学会(藤井敬三先生)、秋田県農村医学会(立身政一先生)により、農村医学の名称が一般化されました。また、1952年に農村および地域の実態に立脚して、医療と保健に関するすべての問題を調査研究し、その健全なる向上、発展を期することを目的に、日本農村医学会が発足しました。1952年は、戦後の食料難や社会の混乱から脱し、ようやく社会的・経済的に安定がみられるようになった時期であり、当時の農村における保健・医療問題は、低栄養・過重労働など貧困に基づく劣悪な生活環境を背景にして、結核をはじめとする急性・慢性の感染症や回虫・鈎虫などの寄生虫の蔓延、母子保健の諸問題、早期の適切な治療時期での治療を逸し重症化した症例などが緊急の課題でありました。

この時期に若月学会長は、農村医誌第1巻1号に日本農村医学会の特性を3点にまとめて述べています。第一に、この学会は実践的性格を強く前面に押し出していること、第二に、農村医学は単なる治療や、単なる生物学的なそれに止まってはならず、真に農村民の立場に立つならば、治療と予防の統一が望まれ医学の総合性を追求し、社会的観点が必要であり、「農村医学」は本質的に社会医学であること、第三に、この学会組織は、民主的であること、構成メンバーに医師のみならず多くのコメディカルをはじめ、農村と農業に関係する広い領域の研修者を含めること、と述べています。

ここで述べられていることは「公衆衛生」そのものであり、農村を地域や職域、農民を住民あるいは労働者と読み替えると、正しくこれらはWHOの公衆衛生の定義(組織された地域社会の努力を通して、疾病を予防し、生命を延長し、身体的、精神的機能の増進をはかる科学であり技術である)と合致しており、改めて若月俊一先生の社会医学者、公衆衛生学者としての眼力の鋭さに敬意を表したいと存じます。

最後になりましたが、今日の農村保健と医療の問題は、現在、農業従事人口が5%を割り込むような産業構造の変化と少子高齢社会を迎えた人口構成を含む社会の変化により、農業や農村地域の保健、医療問題は、過疎や限界集落を抱える地域の問題であると言っても過言ではありません。日本における農村医学は、戦前、戦中、戦後の各時期を通してその時々の保健、医療の問題に取り組み、解決してきたと思われますが、現在ではかつて農村地域であった地域においても都市部と言われている方々と同様、生活習慣病やメタボリックシンドローム、ロコモティブシンドローム、フレイル、サルコペニアなどの健康問題が顕在化しています。これらの問題や課題を農村医学、あるいは都市保健・医学の問題と明確に区分することは困難です。かつて農村地域と言われていた地域においては、農村特有の環境、働き方、疾病や健康問題があった時期とは異なり、農村医学も新しいステージに入ったのではないかと思えてなりません。

若月先生らが提唱した農村医学の原点や方向性は明確であり、今なおその根底に流れている農村医学の精神は揺るぎないものでありますが、農村や都市の定義が不明確になっている今日では、農村医学は、現代社会の大きなうねりの中で岐路に立たされていると言えるかもしれません。

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