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二人の偉人に導かれ [炉辺閑話]

No.4837 (2017年01月07日発行) P.85

新田孝作 (東京女子医科大学医学部長)

登録日: 2017-01-03

最終更新日: 2016-12-26

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細菌学の研究者として有名な野口英世氏は、わが郷里の英雄でした。2004年から発行されている千円札の肖像になっています。彼に関する偉人伝を読み、生家の柱に刻まれた「志を得ざれば再び此の地を踏まず」という言葉に感動して、私は医師になることを決めました。彼の父上の佐代助氏は酒好きで、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いですが、私の実家も酒で傾いた経緯もあり、妙に親近感を覚えました。彼は実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえるようです。この特異な研究姿勢から、当時の米国医学界では野口を指して「実験マシーン」などと揶揄する声もあったといいます。晩年には、黄熱病の研究のためにアフリカのガーナに渡航しますが、黄熱病に罹患し、死去されました。一生を医学に捧げた功績を認められ、その名を後世に残されました。このような偉人を手本として、医師への道を歩き始めました。

一方、鷲山弥生先生は、静岡県掛川市の近郊で誕生されました。17歳のとき、医師になりたいとの願望を父上に告げられたようですが、反対されました。辛抱強い説得の末、上京が許されました。大学が女性に門戸を開いていなかったこの時代、医学を勉強する環境を得るために、大変苦労をされたようです。吉岡荒太先生と結婚され、吉岡弥生先生の誕生です。

1897(明治30)年、飯田町4丁目に「東京至誠医院」を開業されました。1900(明治33)年には、至誠医院の一室に「東京女医学校」の看板を出されました。わが国初の女医学校の誕生であり、しばらくして現在の河田町に専用の校舎を建設されました。1912(明治45)年、東京女医学校は専門学校の認定を受けて、東京女子医学専門学校(東京女子医専)となり、今日の東京女子医科大学へと発展したのです。「至誠と愛」は本学の理念となっています。

お二人は「済生学舎」という医学校で学ばれました。厳しい環境下で、医学の道を極められた姿勢に敬意を表し、微力ながら医学の発展に寄与しようと思っております。

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