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自家感染実験(experimental self-infection)─ ②細菌、ウイルス(2)[エッセイ]

No.4833 (2016年12月10日発行) P.68

滝上 正 (日本感染症学会功労会員/日本医史学会神奈川地方会顧問)

登録日: 2016-12-09

最終更新日: 2016-12-01

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  • オロヤ熱および「ペルーいぼ病」

    標記の両疾患の異同が問われたことがあるが、今日では両者はともにBartonella bacilliformisに起因する感染症であることが明らかにされている。感染後、まずはオロヤ熱と呼ばれる熱性疾患に陥る。「ペルーいぼ病」と呼ばれる疾病はこの一次発症による発熱からの回復後に起こるのである(後者は「ベルーガ・ペルアーナ」、「カリオン病」とも呼ばれる。後述参照)。

    ともあれ、両者は日本には無縁の感染症である。「オロヤ」という地名は、ペルーの首都リマより東方に百数十km離れたアンデス山系内の町の名である。本症はアンデス山系内に限局した風土病であり、サシチョウバエに刺されることにより、ヒトからヒトへ広がる。オロヤ熱の症状は、発熱および(溶血性)貧血である。症状は月余に及ぶことがある。致死率は高かった。

    「ペルーいぼ病」の「いぼ」は、細菌性血管腫症に酷似し、実際は血管が異常に成長したものであり、真の腫瘍性疾患ではない。はじめはごく小さな豆粒大、水疱状のものが、赤ないしは紫色のオレンジ大にまで成長する。顔面のほか、四肢、時には口腔内、深部臓器にも発生する。数カ月から数年持続し、疼痛、発熱を伴うことがある。いぼの形がインカ帝国以前のペルーの人たちがつくっていた壺の形に似ている。16世紀にスペインがインカ帝国を滅ぼした頃に、既にこの病気の記録があるという。

    治療にはテトラサイクリン系抗菌薬が有効であるが、しばしばサルモネラ菌血症を合併するため、クロラムフェニコールも用いられる1)2)

    ともあれ、ペルーいぼ病はダニエル・カリオンという医学徒の故国ペルーでは何百年も前から人々を苦しめてきた、寒さの厳しいアンデス山脈の渓谷地帯の難病であった。しかし、原因はわかっていなかった。医学の道を選んだカリオンにはペルーいぼ病を研究し、なんとか自国ペルーの役に立ちたい、という強い思いがあった。この病気の患者はリマの病院には多数いた。しかし、いぼが現れるまでには長い時間がかかる。本症の初期症状をてっとり早く、詳しく調べるには、健康なヒトにいぼ病の血液を接種するしかない。彼はそう考えた。

    1885年、自由医学協会はペルーいぼ病に関する新発見に対して新しく賞を贈ることを決めた。この賞をもらうのはペルー人たるべし、と考えたカリオンは行動を起こした。実験にはリスクを伴うが、自分の体を使うしかないと彼は腹を決めた。1885年8月27日、カリオンは当該患者の「いぼ」から採取した体液および新鮮血を自分の腕に合計4回注射した。3週後、彼はオロヤ熱を発症し、オロヤ熱とベルーガ・ペルアーナとは原因は同じと判定されたのである。しかし、残念ながら10月5日、ダニエルは28歳の若さで死亡した。発症後の19日間の詳細な病気の経過の記録が遺されている。「ペルーいぼ」ができあがる段階まで、彼は生き延びることはできなかったのであった。

    彼の死はペルーでは高く評価され、本症は彼の名を冠して「カリオン病」とも呼ばれている。ペルーの熱帯医学研究所や病院には彼の名が冠せられるようになった。リマにはカリオンの像も建てられている。

    1913年、この1元2型説にハーバード大学側が反対を唱えたが、野口英世はサルを用いてこれを否定した。このことは承認されてはいるが、野口は生前にそれを知ることはなかった3)~6)

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