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森鷗外をめぐる「ささやかな発見」 [エッセイ]

No.4747 (2015年04月18日発行) P.72

金津赫生 (茨城県つくば市)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-21

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  • 2012年に生誕150年を迎えて鷗外・森林太郎(1862~1922)に関する資料が新たに発見され、森を追って来日した女性もほぼ特定された。一方、脚気病解明に果たした鷗外の事績の評価は功罪両極にわかれて今日に至っている。

    日露戦争に際して第二軍軍医部長として出征した森は第二軍において行われたと推察される米食・米麦混合食の比較対照交差試験を目の当たりにして、麦飯に脚気予防効果があることを認めざるをえなかったであろう。麦飯喫食の訓令を経て、野戦衛生長官の小池正直が開戦以来空席となっていた満州軍総軍医部長および総兵站部長を兼任すると、森は同部長宛に「第二軍軍医部長臨時報告」に代えて「戦時旬報」を報告し始めた。内容は前者と大差ないが、主食のみでなく副食の支給状況をも詳細に記録した。そして米麦混合食を与え続けたにもかかわらず夏季に入って脚気患者が微増したことなどから、脚気が感染症である可能性を、なお捨て切れなかったものと思われる。

    1907(明治40)年11月、小池に代わって陸軍省医務局長に補せられると、脚気病調査会の設置に取り掛かった。『鷗外全集 第34巻』(岩波書店、1974年)の「明治四十一年日記」から関連記事を抜粋する。

    (3月)26日 法制局に於いて予の提案せし脚気調査会勅令を議す。
    28日 夕に北里柴三郎予等を偕楽園に招きて、Robert Kochを歓迎する方法を議す。
    (6月)12日 午前十一時半Robert Koch及夫人を新橋に迎ふ。
    20日 夕大臣官第にKoch師を招かる。
    22日 朝北里柴三郎、青山胤通と帝国客館に会してKoch師を訪ひ、脚気調査の方針を聞く。
    (7月)8日 脚気会を偕行社に開く。南洋行を可決す。
    (8月)4日 宮本 叔、柴山五郎作、都築甚之助を陸軍省に招きてBatavia行の事を内議す。
    24日 午時 Koch師を送りて横浜に至る。



    森、青山、北里の3名がコッホから聴取した脚気病調査方針の内容は「(秘)脚気病調査に関するコッホ氏の意見」としてまとめられ、寺内大臣に報告された後に委員会に配布された。それによるとコッホは来日するに際して熱帯病専門家ノホトの書いたものを読み、ハワイから日本に向かう艦上では高木兼寛の論文にも目を通していた。かつてバタヴィアでマラリアの研究をしていた頃、脚気病死数例の解剖を行ったこともあるという。それらの経験をふまえてコッホは「脚気には重篤な病態に至り感染症と思われるものと、船員などに起こり食餌改良で治癒する軽症のものとがあり、両者は異なる疾患ではないのか。したがって病原菌の検索は重症例について行う必要がある。新鮮な重症例は東インドのバンカ島の鉱山に多いそうだから、そこに出かけて調査すべきである。患者の血液について検索を行うとともにオランウータンを用いて感染実験をしてはどうか。病原体が見つからぬこともあろうから補体吸収(結合)試験も加えるべきである」などと教示した。

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