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『医心方』と福澤諭吉 [エッセイ]

No.4730 (2014年12月20日発行) P.72

栗山 勝 (脳神経センター大田記念病院院長 (福井大学名誉教授))

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-15

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  • 福澤諭吉(1835~1901)は、わが国が誇る明治の大啓蒙思想家である。代表的著書である『学問のすゝめ』の初編の冒頭に掲げた言葉「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズト言ヘリ。サレバ天ヨリ人ヲ生ズルニハ、万人ハ万人ミナ同ジ位ニシテ、生レナガラ貴賎上下ノ差別ナク、……」はあまりにも有名である。しかし、この言葉の基盤になる思想を、諭吉はどこで、何から培ったものだろうか。

    諭吉が杉田玄白(1733~1817)の著書に出会うエピソードが残されている。『蘭学事始(蘭東事始)』は、杉田玄白らが『ターヘル・アナトミア』を訳し『解体新書』を著した時の苦労話と、そのことに纏わる人間模様を描いた回顧録とも言える本であり、1815年に玄白83歳の時に綴ったものである。

    この原稿は杉田家に保管されていたが、1855年の安政大地震の時に焼失してしまい、写本もないとされていた。ところが1868(明治元)年に、諭吉の学友の神田孝平が東京・湯島の露店で消失したと思われていた写本を偶然に発見した。諭吉とともに読み合わせ、西洋の学問を取り入れようとする先人たちの苦労を知り、これから西洋文化を取り入れ新しい世を作り上げようとする彼らの心を感動させた。

    そこで諭吉は杉田家の4代目廉卿氏に、この本を後世に伝えるために、ぜひ出版することを勧め、承諾を得た。諭吉は労を厭わず奔走し、翌1869(明治2)年に刊行し、社会に広く読まれることになった。さらに、その縁で諭吉は杉田家の知遇を得ることができ、杉田家の蔵書を目にすることになる。そこで出会ったのが、玄白が1810年に書いた『形影夜話』(原本は小浜市立図書館にある)である。

    諭吉は同書の中に「患者あらば、わが妻子の患うように思い、深くうれえて、親切に治をほどこすべし……富貴、貧賎は天より按排あるものなれば、私なることにあらず……」などの文を読み、非常に感激し、繰り返し繰り返し読み返したと言われている。これが『学問のすゝめ』の冒頭の言葉の源になっているものと想像するに難くない。また、諭吉は22歳から25歳まで、緒方洪庵の適塾で蘭学を修業し、塾長まで担当し、仲間とともに死に物狂いで勉学に励んだことはよく知られている。

    師の洪庵は、愛読しているフーフェランド(ベルリン大学教授、1764~1836)の著書『Enchiridion Medicum』のオランダ訳書を、約20年の歳月をかけて完訳し、『扶氏経験遺訓(全30巻)』を出版した。この『遺訓』の巻末には医者に対する戒めが記述されているが、この部分を洪庵が12カ条に要約し、門人たちへの教えとしたのが『扶氏医戒之略』である。

    この中の「医者が世に生きるのは、人のためだけである」「病人の貴賎貧富を顧みるな」「出世などを考えず、信頼されるように努めよ」などを諭吉は読み、医師に対する訓戒だけでなく、人としての倫理観に通じる訓戒として、多感な時期の諭吉を強く印象づけたと想像する。

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