株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

チキン・ギャング:アル・カポネの変様【歴史逍遙─医学の眼(28)】[エッセイ]

No.4719 (2014年10月04日発行) P.72

小長谷正明 (国立病院機構鈴鹿病院長)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-23

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
    • 1
    • 2
  • next
  • 2月14日は愛を誓いあう「バレンタインデー」である。このロマンスの日に、恋の矢の代わりにマシンガンを連発した悪漢がいた。

    少年時代の筆者はハート型のチョコレートには縁がなく、バレンタインと聞くと、「アンタッチャブル」のFBI捜査官を思い浮かべたものだ。アル・カポネを中心とした米国のギャング映画のせいだ。



    1929年2月14日午前10時30分、シカゴの運送会社の車庫に密造酒取引で7人の男が集まっていた。そこへ制服警官姿の男が4人現れ、警察の手入れかと思った彼らは警官たち(?)に言われるままに両手をあげて壁際に後ろ向きに並んだ。

    すると、突然、マシンガンの連射音がし、またたく間にみな床の上に倒れ、絶命した。俗にいう“聖バレンタインデーの虐殺”である。

    黒幕の名はカポネで、対立するギャングの一味を、情け容赦なくまとめて消したのだ。しかし、彼はこの日、あろうことか遠くマイアミで州検事と面談していた。

    彼は、パールグレイの中折れ帽にスリーピースのダークスーツに身を包み、少年時代の抗争で傷ついた顔からスカー・フェイスと呼ばれたギャングスターで、暗黒街の帝王であった。

    時を経て西海岸のサンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島の刑務所で、他の囚人から脅しを受けて毛布をかぶって泣いている男がいた。囚人のストライキに参加しなかったことで嫌がらせを受けたのだ。

    数日後の6月23日には、床屋の順番でもめ、彼は「俺のことを知らないのか」と凄んだ。だが、相手は「知っているよ、このgrease-ball(油玉:南欧人に対する蔑称)、列に並ばなきゃ、お前が何者だか教えてやるよ」と、床屋のハサミで刺した。男は囚人85号、他の受刑者から馬鹿にされている無気力な1936年のカポネである。



    アル・カポネことアルフォンス・カポネは1899年生まれのニューヨーカーである。ただし親は貧しいイタリア移民でスラム街育ちだった。背は低いが横幅があり、平べったい鼻にたらこ唇で丸顔。精悍な感じではないが、暗黒街の抗争では素早く動き、10歳代ですでに頭角を現していた。

    結婚を機にボルチモアで経理事務という堅気の生活を始めたが、長くは続かず、シカゴに移って再び裏社会に入り、暗黒街でメキメキと頭角を現し、大物になった。

    時代は1920年代、当時の米国社会は、酒を造ってはいけない、売ってはいけない、輸送してはいけないという、禁酒法の時代である。しかしなぜか、飲酒は禁止されず、密輸入や密造、密売が横行していた。カポネは、相手を握手によって右手を封じて暗殺した「シェイクハンド・マーダー事件」や、「聖バレンタインデーの虐殺」など、ライヴァルのギャングを片っ端から消していった。一説によると、400人の殺人を指令し、20人以上は自ら手を下しているという。さらに賭博、売春、ユスリ、タカリと裏社会ビジネス全般に手を広げ、1927年の所得は1億数千万ドルだったともいう。政界や警察上部への買収はいうまでもない。

    一方では、貧民層に対して社会サービスも行い、現代の義賊ロビン・フッド扱いもされた。1929年からの大恐慌時代には、職どころか食を求める失業者に毎週何千食もの無料給食サービス、スープ・キッチンを提供した。もっとも、費用は彼が自腹を切ったというよりは、地区の食料品店などに“影響力”を行使したものらしいが。

    FBIや警察は必死で彼を逮捕しようとしたが、なかなか尻尾を出さず、1931年になって脱税容疑でやっと逮捕した。このとき対立するマフィアによる暗殺を逃れるために、彼自身が微罪での刑務所入りをもくろんでいたらしいが、巨額の罰金と懲役11年の判決を受けた。すでに判断力が低下していたのか?

    なお、服役中の1933年、憲法修正21条が成立し、暗黒街に暴利をもたらした禁酒法は廃止された。

    残り2,187文字あります

    会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する

    • 1
    • 2
  • next
  • 関連記事・論文

    もっと見る

    関連書籍

    関連求人情報

    もっと見る

    関連物件情報

    もっと見る

    page top