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お札の顔[なかのとおるのええ加減でいきまっせ!(249)]

No.4957 (2019年04月27日発行) P.63

仲野 徹 (大阪大学病理学教授)

登録日: 2019-04-24

最終更新日: 2019-04-23

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すこし先だが、千円札の顔が野口英世から北里柴三郎へとバトンタッチされる。医学者の肖像を紙幣に使うのなら、野口より北里こそがふさわしい、とかねてから考えていたので、快哉を叫びたいほどだ。

野口は明治9年(1876年)、北里は嘉永6年(1853年)の生まれなので、北里の方が23歳年長である。短い期間だが、野口は、北里が設立した伝染病研究所(東京大学医科学研究所の前身)で外国図書係として働いていたという縁もある。

精神疾患と考えられていた進行麻痺の原因が梅毒スピロヘータであることを突き止めた野口の業績は特筆に値する。しかし残念ながら、野口の研究は、黄熱病スピロヘータ説や梅毒トレポネーマの培養など、後に誤りであったとわかったものが多い。

対する北里は、ロベルト・コッホの研究室に留学中、破傷風菌の培養法を確立。そして、破傷風菌毒素に対する耐性の研究から、その機能を中和する物質、抗毒素(=抗体)が産生されることを見出した。

誰も想像だにしなかったし、すぐに病気の治療に使える超弩級の発見であった。その方法をジフテリア菌に応用した北里の同僚エミール・フォン・ベーリングが第1回ノーベル生理学・医学賞に輝いたことからも、いかに画期的だったかがわかる。

現在のノーベル賞選考基準からすると、最初に原理を見つけた北里の受賞、あるいは、すくなくとも共同受賞になるはずだ。なんとも釈然としない。そして、もし受賞していたら日本のノーベル賞に対する姿勢は大きく違ったものになっていただろう。

帰国後は、伝染病研究所、北里研究所の設立、慶應義塾大学医学科(後の医学部)の創設と初代科長就任、日本医師会の創設、などと、研究だけではなく社会的な活動においても八面六臂の大活躍だった。

日本医学界に燦然と輝く巨星である。もう、これだけのことをなしうる人物は現れないだろうから、日本医学史における空前絶後の偉人と断定しよう。

伝染病研究所の東大への移管問題騒動や、芸妓をめぐるスキャンダルなどもあって、北里の伝記は野口のそれに劣らぬ面白さである。これまで野口に比べて北里のことがあまり知られていないのが不思議だった。紙幣の顔になるのを契機に、大偉人のことが多くの人に知られるのがとてもうれしい。

なかののつぶやき
「野口英世の伝記は、父親が野口の共同研究者であったイザベル・R・プレセットによる『野口英世』(星和書店)が、北里柴三郎の伝記は、名古屋大学名誉教授・福田眞人先生の『北里柴三郎-熱と誠があれば』(ミネルヴァ書房)が、個人的にはオススメです。拙著『なかのとおるの生命科学者の伝記を読む』(学研メディカル秀潤社)でも、この2人のことを取り上げています。最後は単なる宣伝です。あしからず」

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