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チェーホフの『敵』─続・文学にみる医師像[エッセイ]

No.4862 (2017年07月01日発行) P.70

高橋正雄 (筑波大学人間系)

登録日: 2017-07-02

最終更新日: 2017-06-27

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  • 1887年にチェーホフが発表した『敵』(『チェーホフ全集6』原 卓也、訳、中央公論社刊)は、息子を亡くしたばかりのキリーロフという医師が、無理矢理往診を求められるという話である。

    この物語は、「暗い9月の夜、郡会医キリーロフの家では、今年6つになる一人息子のアンドレイが、ジフテリアで息を引きとった」という一文で始まる。ところが、医師の妻が冷たくなったわが子のベッドの前にくずおれていたこの時、玄関でけたたましくベルが鳴ったのである。

    キリーロフが玄関の戸を開けると、入ってきた男は、「今すぐ僕といっしょに、いらして頂けないでしょうか……妻が重態ですので……馬車も用意してございますから」と、キリーロフの手を固く握りしめて言った。

    男によれば、彼の妻が自宅で、突然悲鳴をあげるなり、心臓のあたりを抑えて椅子の背に倒れてしまったのだという。男は妻をベッドに運び、アンモニアで妻のこめかみを拭いたり、水を吹きかけたりしたが、まるで死んだように倒れたままなのだ……。

    それを聞いたキリーロフは、「申しわけありませんが、とても行かれません……5分ほど前にうちでは……子供が死んだんです」と答えたが、男は「ああ、何て間のわるい時にぶつかっちまったんだろう」とうなだれながらも、あくまでも往診を求めて、次のように言った。「先生のお立場は僕にもよくわかります!まったくの話、こんな場合に、先生のご診察を仰ごうとするなんて、われながら恥しいと思います。でも、いったいどうすればいいんですか?」、「この土地には、先生以外に、お医者さんはいないんですよ!」。

    この言葉を聞いたキリーロフは、放心したように寝室に向かったが、そこでは、先ほど亡くなったばかりの息子が、眼を見開いて驚いたような表情を浮かべて、ベッドに横たわっていた。このときキリーロフは44歳で、色香の失せた病身の妻も35歳になっていたため、亡くなったのは、2人のたった1人の子どもというだけでなく、最後の子どもでもあったのである。

    妻のそばに5分ほど佇んでいたキリーロフが玄関に出てみると、先ほどの男が待ち構えていて、「やっと来てくださいましたね!」、「さ、参りましょう」と言った。キリーロフは、「いいですか、先ほども申しあげた通り、今日はうかがえないんです」と、再度断ったが、男は、「先生、僕だって石仏じゃありませんから、先生のお立場はよくわかります……ご同情いたします!」と言いながらも、「人間の生命は、どんな個人的な悲しみよりも上のはずです!おねがいです、勇気をだしてください。犠牲的精神を発揮してください!人間愛のために!」と、今度は人間愛に訴えてきた。

    それに対してキリーロフは、「ほかならぬその人間愛のために、わたしは往診を勘弁してくださるように、おねがいしているんですよ」と反論しながら、次のように訴えた。「医師法第13条によって、わたしには行く義務があるんだし、あなたには、わたしの頸根っ子をつかんでひきずって行く権利があるんです」、「でも、わたしはお役には立てませんよ……口をきくのさえできないんですから……どうか勘弁してください」。

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