株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

海軍士官の言い訳(下) [エッセイ]

No.4804 (2016年05月21日発行) P.70

内藤裕史 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-01-24

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
    • 1
    • 2
  • next
  • 言い訳をしなかった例─艦長をなぐった海軍少尉

    日中戦争(支那事変)が始まる2年前、秋の演習が終わって東京湾に寄港した新鋭巡洋艦「最上」は沖に停泊し、芝浦桟橋との間は「最上」の内火艇(うちびてい、とも。ランチ)が定期便として往復していた。時間厳守は海軍の美風で、上陸しても1分でも帰艦時刻に遅れると懲罰の対象になり進級にも影響、戦時だと逃亡罪が適用された。しかしそれは下士官と兵だけで、士官の帰艦時刻だけはルーズで、その傾向は上級士官ほどひどかった。任官したばかりの板倉光馬少尉は、士官のこうした悪習をかねてから苦々しく思い、それはしこりとなって胸中深くくすぶっていた。

    その日、朝から上陸を許された板倉少尉は町で飲み歩いて泥酔しながらも帰艦時刻には桟橋にいた。しかし最終定時を30分過ぎても「最上」からの迎えのランチは来ない。桟橋に残っているのは「最上」の乗組員だけになった。板倉少尉の胸中にはむらむらと黒い憤怒が鎌首をもたげていた。その矢先、ケップガン注)が「今日は艦長の招待客が多いから遅くなるだろう」と、こともなげにつぶやいた。艦長の都合で帰艦時刻の遅れが許されるべきものではない。軍艦の士気と軍紀は、ガンルーム注)士官の双肩にあると言われている。帰艦時刻が無視されるのを当然のことのように受け止めているケップガンの態度が憤怒に油を注いだ。酒の酔いも手伝って怒りにブルブル震えた。1時間ほど待たされてようやく、多数の客と夫人を乗せたランチが来て見送りの艦長が桟橋に足を掛けた。

    腸が煮えくり返っていた板倉少尉は何かわめきながら突進して行ったところまでは覚えているが、気がついたとき、2、3人の士官に両腕を取られてランチに連れ込まれていた。艦に上がってから艦長を殴ったと聞かされた板倉少尉は愕然とした。酔いも醒め果てて青くなった。弁明の余地はまったくない。上官暴行罪で、ただでは済まない。戦時であれば銃殺である。心中ひそかに覚悟を決めて私室で着替えをしていると副長(注:副艦長)に呼ばれた。けわしい顔で睨みつけ、足でドスンと床を踏み鳴らし「艦長を殴るとは何事だッ!帝国海軍始まって以来の不祥事だッ。何分の沙汰があるまで私室で謹慎してろ!」と言われ、「私物と官給品の仕分けをしておけ」と付け加えられた。返す言葉もなかった。あったとしても、口にすべきではない。悄然と引き下がった。軍法会議か懲戒免職である。猛勉強して憧れの海軍兵学校に入学、厳しい教育訓練に耐え、外国の文化・風土にあこがれながらの遠洋航海、任官の喜びをかみしめている矢先である。軍法会議の法廷に立つ自分、汚名を着せられ悄然として故郷の土を踏む自分、落胆する両親兄弟の顔が目に浮かび、まんじりともしないで夜が明けた。

    朝食の用意ができたと知らされてもガンルームに顔を出す気にもなれず、艦長宛の詫び状を書いているところに艦長がお呼びですと連絡が来た。早晩脱ぐべき軍服である。背広に着替え、重い足を引きずりドアをノックして艦長室に入り、一礼して顔を上げたところ、艦長の左頰が赤く腫れ上がっている。思わず目を伏せ詫び状を差し出すと艦長は無表情のまま読み終え、板倉少尉を見つめていたが、「板倉少尉は、酒を止められないか?」「はッ、昨夜来、禁酒を決意しましたが、おそらく続かないと思います。」「そうか、では、酒の量を減らすことは出来ないか?」すっかり観念した板倉少尉はしばらくおいて、「はッ、そのつもりでいますが恐らく酒を止めるより難しいと思います。」とつい本音が出た。艦長はしばらく考えていたが、「そうか……。もうよろしい。」ぽつんとしたそのひと言に、取り返しのつかない悔いと、運命の定めを覚えつつ自室に戻った。

    後は処断を待つだけである。せめて最後は潔くしたいと無精鬚を剃り、兵学校のクラス会に脱会届を書いていると、再度、艦長から呼び出しが来た。いよいよ来るべきものが来た。どのような申し渡しがあろうとも、女々しい振る舞いだけはしたくない。覚悟を新たにして出向くと、相変わらずおだやかな口調で、「どう考えても腑に落ちない。何か訳があってのことではないか?」「別にありません。ただただ、申し訳ないと思っております。」

    残り2,275文字あります

    会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する

    • 1
    • 2
  • next
  • 関連記事・論文

    もっと見る

    関連書籍

    関連求人情報

    もっと見る

    関連物件情報

    もっと見る

    page top