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医史からみた妊産婦の命を守る闘い③─恥骨結合切断術[エッセイ]

No.4960 (2019年05月18日発行) P.58

水田正能 (安来市立病院地域医療部長・婦人科部長)

登録日: 2019-05-19

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恥骨結合切断術、それは現在の産科医としては到底考えられない手技であるが、母体を救命する手段として、議論され実行された時代があった。閉じた閂をこじ開けるように、児の娩出を妨げ、母体を危険にさらす骨盤という閂を、恥骨結合を切断することにより分娩を完遂するのである。特にLeonardo Gigli(1863~1908)の術式は有名であったという。それは、恥骨結合の後面に、「Gigli saw(ジーリのこぎり)」という糸のこぎりを貫通させ、前方に向けて恥骨結合を切断していく手技であった。


最初に成功した恥骨結合切断術は、Jean-René Sigault(1738~?)が1777年に行った。SigaultとAlphonse-Louis-Vincent Leroy(1742~1816)は、1777年10月1日にパリで恥骨結合切断術を行って、Souchot夫人の命を救ったという。彼女は、前後径が約6.5~7cmの佝僂病による狭骨盤で、4回の死産歴があった。帝王切開術が安全でない時代では、彼女は恥骨結合切断術による以外、生児を出産する手段はなかったのである。これ以降、フランスでは恥骨結合切断術は認知され施行された。

恥骨結合切断術に可能性を見出したのは、Séverin Pineau(?~1619)による1597年のことで、絞首刑に処された妊婦の恥骨結合を切断してみせたことに始まるようであるが、発想は以前からあったようである。Ambroise Paré(1510~1590)は、ギリシャの医師たちが主張していたようだが、骨盤は基本的に分離するもので、骨盤分裂という言葉を使い、恥骨が左右に分離して分娩に至ると考えていた。さらに、出産の苦しみは恥骨結合が分離するまで続き、恥骨破裂によって楽になると信じていたらしい。Paré は難産の末、重篤な恥骨結合の離開を引き起こしたが、分娩を終了した褥婦を観察し、通常もある程度の恥骨結合の破裂が起こっているはずだ、と信じていた。

しかし、分娩時に尾骨が後退することを論じ、ベネチア軍の軍医であったAlessandro Benedetti(1450~1512)は、恥骨結合の破裂には疑問を抱いていたし、Andreas Vesalius以降の解剖学の進歩により、恥骨結合破裂は否定された。分娩の際に恥骨結合が破裂しないとして、ただし恥骨結合離開により分娩が終了する可能性があるとしたら、難産に苦しむ女性を前にして、恥骨結合の切断を思いつき、実践した先人の気持ちを推察することは可能である。

創傷医の見習いから身を起こし、ドイツで初めて、1769年にヴュルツブルク大学の外科学、産科学の正教授に就任したKarl Kaspar von Siebold(1736~1807)も、恥骨結合切断術を勧めた。ところが、彼の孫であるEduard Caspar Jacob von Siebold(1801~1861)は彼の著書の中で、「恥骨結合切断術は歴史的珍奇な手術という以外には、意味のない手術である」とこきおろしている。

これ以外にも、この手術に対しては多くの反対者があった。1793年7月13日に起きた革命指導者であるJean-Paul Marat の暗殺の直後に駆けつけたPhilippe-Jean Pelletan(1747~1829)、ナポレオンの家族の産科医であったJean-Louis Baudelocque(1745~1810)、帝王切開術の子宮横切開を初めて紹介した Thiébault Etienne Lauverjat(?~1800)などである。彼らは実は最初に恥骨結合切断術を受けたSouchot夫人が、術後10カ月して、憐れむべき状態になったこと─想像するに、骨盤の不安定による歩行障害と思われるが─を反対の理由としていたという。

ところが、その後も恥骨結合切断術は行われた。Adolphe Pinard(1844~1934)、Louis Hubert Farabeuf(1841~1910)、Henri-Victor Varnier(1859~1902)らが再び採用した。腟内に常在するDöderlein桿菌による腟の自浄作用を発見したAlbert Siegmund Gustav Döderlein(1860~1941)も、推奬者の一人であった。

イタリアでは、恥骨結合切断術は19世紀の前半期に初めて用いられ、1891年にOttavio Morisani(1834~1917)らが、防腐法を用いて本手術を行って、立派な成績を収めた。
オランダでは、カンパーの靱帯(会陰横靱帯)に名を残し博物学者でもあったPieter Camper(1722~1789)が、恥骨結合切断術に先鞭をつけた。アルゼンチン・ブエノスアイレスのEnrique Zárate(?~1962)は、後遺症を回避する目的で、Henle氏靱帯を切らずに残しておく恥骨結合切断術を考案している。


恥骨結合切断術には、出血や膀胱の損傷、術後の骨盤不安定による歩行障害などの後遺症があったであろう。安全な帝王切開ができる時代でなければ、恥骨結合切断術は選択しうる母体を救命する手段であったことは間違いない。

【参考】

▶ 大矢全節:産と婦. 1960;27(6):413.

▶ ハワード・ハッガード:古代醫術と分娩考. 巴陵宣祐, 訳. 武侠社, 1931.

▶ マイヤー・シュタイネック, 他:図説医学史. 小川鼎三, 監訳. 朝倉書店, 1982.

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