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『ウイリアム・ウイリス伝』[なかのとおるのええ加減でいきまっせ!(248)]

No.4956 (2019年04月20日発行) P.57

仲野 徹 (大阪大学病理学教授)

登録日: 2019-04-17

最終更新日: 2019-04-16

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朝刊を見る楽しみのひとつはサンヤツ広告である。一面のいちばん下にずらっと並んでいる本の広告のことで、3段分のスペースを8つに分けてあるからサンヤツだ。

ある日、そこに『ウイリアム・ウイリス伝』があるのを発見して即刻購入した。ウイリス、どれくらいの知名度なのだろう。

吉村昭が高木兼寛を描いた『白い航跡』を読んだ人なら覚えておられるだろうか。高木は、西洋風の食事が脚気の発症を抑えるという偉大な発見をした海軍軍医で、東京慈恵会医科大学の学祖でもある。

その高木が薩摩藩の医師として戊辰戦争に従軍した際、クロロホルム麻酔を駆使し、躊躇することなく四肢の切断をおこなうウイリスの鬼神のごとき腕前に驚愕する。後にウイリスに師事し、勧められて英国へ留学。その経験が脚気の研究に大きく役立った。高木の大恩人こそがウイリスである。

英国領事にして医官のウイリスは、1863年の薩英戦争では薩摩を攻撃する軍艦に乗船していた。しかし、時代は急速に展開し、8年後には、東京医学校兼病院(東京大学医学部の前身)に職を得る。

明治政府はウイリスを軸に英国医学を導入しようとするが、土壇場で医学校取調御用掛であった相良治安らによりドイツ医学導入へと変更されてしまう。失意の中、西郷隆盛らに請われ鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部の前身)の校長兼病院長になるが、晩年は必ずしも幸福ではなかった。

ウイリスが日本人と並んだ記念写真では、190.5㎝、127㎏という巨漢ぶりがものすごくて、まるで怪物だ。また、その日記で知られる英国駐日公使アーネスト・サトウと終生無二の親友であった。

地味で朴訥な人柄であり、戦役では敵味方なく治療にあたり、戊辰戦争では謝礼を一切要求しなかった。戦争に巻き込まれて負傷し、見捨てられていた老女の治療をおこなうなど、実に博愛の人であった。

ここに書いた内容だけでも、かなりそそられはしないだろうか。歴史に「もし」はないけれど、どんでん返しがなくて英国医学が導入されていれば、日本の医学は全く異なった様相を呈していたはずだ。もちろん、ウイリスの後半生も。

日本の医学の大恩人になっていたかもしれないウイリス。もっと知られていて不思議のない人物であることは間違いない。

なかののつぶやき

「医師である山崎震一氏の力作。一次資料を丹念に読み込んで書かれた内容は説得力も抜群。大部な本ですが、明治維新のダイナミズムも感じられて一気に読めます」

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