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明治、ホフマン物語[エッセイ]

No.4931 (2018年10月27日発行) P.66

金津赫生 (茨城県つくば市)

登録日: 2018-10-28

最終更新日: 2018-10-23

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テオドール・エデュアルト・ホフマン(1837~1894)は、プロシア皇帝より正式に日本国に派遣された最初の内科医である。日本政府の要請を受けて、まず、外科医レオポルト・ミュルレル(1824~1893)の派遣が決定し、ミュルレルの推薦によりホフマンの来日が実現した。普仏戦争の影響で、予定より1年ほど遅れて、1871(明治4)年7月7日、横浜に上陸した。両人とも夫人同伴で、ホフマンは出産が見込まれていたためか、お手伝いさんも随伴していた。

2人とも日本での身分や待遇は同等であると考えていたようであるが、日本政府は北ドイツ連邦代理公使と結んだ条約どおり、ミュルレルを一等医師(月給600ドル)、ホフマンを二等医師(同300ドル)として横浜での契約に臨んだ。ホフマンには承服できず、東京赴任は9月にずれ込んだ。代理公使は帰国していたので、ホフマンの給与の正式の増額要求は翌年まで持ち越されることになった。しかし、好都合なことに兵部省軍医寮から申し出があり、ホフマンは、在京の軍医たちに主として理学的診断学を講じることになった。月給は150ドルで、契約期間は1872(明治5)年1月から東校との契約満了までとされた。ところが、松本軍医頭より5月7日付けの書簡が届き、契約は一方的に打ち切られてしまった。大阪の軍医学校が閉鎖され、蘭医ブッケマが上京して軍医学校勤務となるので、ホフマンに講義を依頼していた午後の時間は実習に宛てねばならない、というのがその理由であった。ホフマンはこの一方的通告を承諾しなかったが、両者の話し合いはなされないまま契約期間は終了した(『新説明治陸軍史』中村 赳著、1973年、梓書房刊)。この間、兵部省は陸・海軍省に分かれた。

1875(明治8)年4月15日、横浜在住のドイツ人ア・シャフェルは、陸軍軍医頭・松本 順を相手取って、ホフマンへの未払い給与(28カ月10日分と利息)を支払うよう提訴した。同人はホフマンの親族で、要求する権利をホフマンより譲渡されていた。裁判所は陸軍側とホフマン本人から事情を聴取し、契約書、カリキュラム等も吟味した上で、原告勝訴の判決を下した。

乃木大将と幼馴染で、終生親交を結んだ桂 弥一(1849~1939)は1871年、フランス留学を志しフランス語を習っていたが、重症の脚気に罹ってしまった。以下は桂翁が1932(昭和7)年に報知新聞記者に語った談話の筆記である(『桂翁の横顔』内田要助編、1963年、長府博物館刊)。

「私はパンで助かった。(中略)27人のうち25人まで死んで何でも私と会津の者と2人だけ助かった、それがネ、もうだんだんひどくなって今度は自分の番だと思った。からだはしびれていたい。下っ腹には米の一斗もあるように重い、実に苦しい。それが大名屋敷を改造して造った大学病院の始めです。ドイツ人のホフマンというのが雇われておった。サア、ホフマンがいう、その頃は脚気のことがわからんのですよ、ドイツやフランスにはこの病気に相当するものがない。しらべて見るとインドにあるようである。それも海岸に多くて病気になると山間部へ行くとなおる。そうゆうことをいう。又日本に多いわけはどうも米からくるらしい。で、私にパン食を試みないかという。『よろしいやってみましょう』『飯は一切食べんでパンでやってみてよろしいか』『よろしいやります』(中略)それが明治5年です。それからパンでずーッと通した。ずんずんよくなってゆく。前後10カ月程もいるうちに外出も出来るようになって早速パン屋をたづねた。それが木村屋です」。

松本軍医頭は、漢方医との競合に半生を捧げてきた、自他共に許す洋方医の第一人者であった。その頃、軍医療には外科手術術式のみ洋方を学んだ漢方医が多く在籍し、その勢力を以前のように広げようと画策していた。白米六合給付は徴兵制の目玉でもあったのに、ホフマンが漢方医の説を取り入れて、脚気の治療に米飯を排除しようとしていることを知って、洋方軍医たちは、何としてでもホフマンを遠ざけねば、との焦眉の急を感じたであろう。脚気に罹った兵士たちが、漢方医の遠田澄庵の診療を求めて集まることを知った石黒忠悳軍医は、意を決して遠田医院を訪れ、その玄関に屯している兵士たちを説き伏せて追い返したこともあったという。

「竹橋の兵隊さん 何を食う 食パン食らう どうか食らうか食らう」という俗謡も流行し始めていた(『ぱん由来記』安達 巌著、1969年、東京書房社刊)。

上述の状況から考えると、ホフマンが東校において、パン食による脚気治験を始めたことが、理由にもならない理由で、軍医寮から追われることになった真因なのではなかろうか。さらに、ホフマンが再来日して宮中を中心に診療に当たるという、宮内庁と交わされた契約が破棄されたことにもつながるものと推察される。

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