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西郷隆盛をめぐる人々と維新前後の医学[エッセイ]

No.4921 (2018年08月18日発行) P.68

早川 智 (日本大学医学部病態病理学系微生物学分野主任教授)

登録日: 2018-08-19

最終更新日: 2018-08-14

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日曜夜のNHK大河ドラマは、昭和38(1963)年から半世紀以上放映されている。五十数回の放映内容を見てみると、最も多いのが戦国時代で次が幕末である。史実はどうであれドラマの内容は、歴史上の人物のイメージ形成に大きな影響を与えていると思う。癇癖で長身痩躯の織田信長、抜け目のない剽軽者の木下藤吉郎、そして巨大な体躯の鷹揚な人格者西郷隆盛といったところだろう。

写真嫌いの西郷のありし日の姿は肖像画から想像するしかないが、有名なキヨッソーネの絵は弟の西郷従道と従弟の大山巌をモデルにした想像画である。また、我々の大西郷のイメージは、同時代や後世の崇拝者や本人が意識してつくり上げたものである。薩摩では、上に立つものはカミソリのような切れ味の持ち主でも爪を隠してぼうっとしているように見せる、という美意識があった。

実際のところは、維新前後の西郷は幕府や諸藩との政治的駆け引きで凄腕を発揮した冷徹なマキャベリストであり、決して小説やドラマに出てくるような単純な激情家ではない。しかし、藩と国家の命運を背負った政治活動はストレスの多いものであったらしく、持病の腹痛と下痢に苦しめられている。

安政2(1855)年、島津斉彬の指示で将軍後継者問題の政治工作に当たっていた西郷は強いストレスがあり、繰り返す下痢に苦しめられていた。故郷の友人樺山三圓に、「盆前より暑邪に当られ、頓と痔(痢の誤字)病様にて五十度計も瀉し候へ共、もふは本腹仕り候」と書き送っている。明治維新の後、新政府の参議、陸軍大将となった後も、症状は悪化の一途をたどった。薩摩で藩政を担当する旧友桂久武への手紙には、「昼夜には二十四五度の瀉し方にて、間には下血致し候得共、頓と気分は不相変」と書いている。湯治に行っても腸の具合はよくならず、以前からあった「腹痛」と「下痢」に「下血」が加わった。

維新前後の西郷書簡については、家近良樹教授の『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房、2011年刊)に詳しいが、反復する下痢と下血からして、同氏が推定する過敏性腸症候群や虚血性腸炎よりは、潰瘍性大腸炎(UC)とクローン病(CD)などの炎症性腸疾患が最も可能性が高いと筆者は考える。

炎症性腸疾患はその活動性が患者の生活に大きく影響するため、病勢の良好なコントロールが不可欠である。従来の副腎皮質ステロイドや 5-アミノサリチル酸製剤に加えて、近年炎症メディエーターを標的とした生物学的製剤や分子標的治療が可能となったことで、患者さんの予後は著しく改善している。日本でも有名な政治家が、一時期は進退を危ぶまれた体調不良から回復し、長期政権を担当することができるようになったのは読者の方々もお聞き及びのことであろう。

西郷隆盛は確かに明治維新の立役者であり、偉大な人格者だったことから、同時代の人びとや後世に大きな影響を残したことは間違いない。しかし、一方ではあくまで旧時代の武士道の追求者であり、毛沢東と同じ農本主義者・永久革命家(半藤一利著『歴史と戦争』幻冬舎新書、2018年刊)でもあった。維新後の西郷は、維新政府が万事西洋化し、尊王攘夷の志士たちが政府や軍の高官となって贅沢をしていることが我慢できず、死に場所を求めるようになっていった。これが彼の限界でもあり、維新政府に不満を持つ薩摩士族の首領に祭り上げられたときに断れなかった理由でもあろう。そして明治10(1877)年、私学校の生徒を中心とする薩摩軍の旗頭となり、半年の激戦の後に城山で政府軍に首を授けることになる。昔も今も炎症性腸疾患に学校は取り合わせが悪いようである。

さて、江戸時代から明治維新前後の医学史を調べていると、種痘に始まる予防接種に加えて消毒や無菌法、エーテル麻酔など西洋の先端医学がほぼリアルタイムで入っていることに驚かされる。欧米で助かる病気や外傷は日本でも助かるようになり、西洋医学で助からないものは助かっていない。西郷の主君で政治的恩師であった島津斉彬は、19世紀3度目のコレラ・パンデミックあるいはビクトリア女王の夫君アルバート殿下が斃れた腸チフスの犠牲となっており、長州の盟友高杉晋作は不治の病であった結核で夭折している。同じく維新回天の立役者、坂本龍馬は梅毒に悩んでいるが、これも19世紀には世界的パンデミックにあり、有効なサルバルサンやペニシリンの発明はまだまだである。

明治維新後の兵制改革を巡って西郷と対立した大村益次郎(村田蔵六、適塾に学んだ医師でもある)は暗殺者の凶刃に斃れているが、受傷から敗血症による死まで2カ月を経ており、抗菌薬治療や刀創部の現在のような外科管理ができれば救命ができたであろう〔ちなみに、慶應義塾の創設者福沢諭吉の『福翁自伝』には、諭吉や村田蔵六ら適塾に学ぶ苦学生とライバル(?)関係の華岡塾医学生との対立がユーモラスに描かれているが、決して後者が金持ち医家や名門御殿医の馬鹿息子ばかりではなかった。筆者の実家にある華岡流の講義録や手術書を見ると、幕末の折衷派は伝統医学に加えて蘭方による外科手術や西洋薬を積極的に取り入れていたのである〕。

さて、明治初年の戊辰戦争はクリミア戦争、南北戦争、普仏戦争、イタリア独立戦争と、欧米の国々の間の戦争と重なるが、これらの戦争では蒸気船、炸裂弾丸、元込めライフル銃、弾着の観測気球など、様々な新兵器が開発された。そして、余剰兵器は南米やアジアの国々に輸出されるのみならず、軍事顧問団が送り込まれた。よくぞ日本が独立を維持できたと思うが、軍事技術と同時に、先に述べた医学・医療も長足の進歩を遂げた。

江戸時代末期は出島のオランダ人から、そして維新後はプロシアやイギリスのお雇い外国人と留学生により、我々の先達は西洋医学の進歩をほぼリアルタイムで受け入れ、明治後半には北里柴三郎や山極勝三郎に代表される世界的な医学者を輩出している。150年前によくぞ、資源も産業もない極東の小国がここまで頑張った、と涙が出る。

21世紀に生きる我々も研究費が足りない、時間がない、医療や教育システムが悪いと嘆く前に、先人の名を辱めないように精進したいものである。

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