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新年の謹言 後生畏可と出藍の誉れ[炉辺閑話]

No.4889 (2018年01月06日発行) P.81

丹黒 章 (徳島大学大学院医科学教育部部長、医学部長)

登録日: 2018-01-05

最終更新日: 2017-12-22

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昭和56年に徳島大学医学部を卒業したのち、郷里である山口県宇部市の山口大学第二外科に入局した。当初、学生時代から出入りしていた第一病理学教室の故内野文弥教授のもとで病理医になりたいと思っていたが、挨拶に行った故鳥越 正産婦人科教授から故石上浩一教授の部屋に連れて行かれ、半ば強制的に入局が決まった。それからは教授直々に指導を受け、食道外科医としてのスタートを切った。

CTが普及したばかりで、食道透視だけで、まさしく切除の可否を「推測」して手術に臨んだ。進行がんが多く、とにかく切除できれば幸い、できるだけ短時間に食道を切り取り、中山式ペッツで胃管を作製、胸壁前で頸部食道と吻合した。石上先生は、迷走神経切離による血流・運動機能低下に対して交感神経切除や迷走神経埋め込みなどを工夫され、胃管うっ血を回避すべく井口式血管吻合器で胃大網静脈と外頸部静脈を吻合しておられたが、縫合不全はほぼ全例に発症した。全例に気管切開を行い、バード従圧人工呼吸器で呼吸管理を行ったので、術後2週間は帰れなかった。石上先生には不屈の精神を学んだ。

昭和62年から京都大学第一外科より故鈴木 敞名誉教授が赴任された。鈴木先生からは膵臓外科、特に幽門輪温存膵頭十二指切除術(PPPD)のコツを学び、PPPD術後のCCK、ガストリン動態を従来法と比較して論文化しAnnals of Surgeryに掲載され、CCKアッセイで有名なRayford教授の研究室に留学した。留学した1989〜1991年は、米国でも内視鏡外科がブームとなっており、帰国後は内視鏡外科手術を発展させ、腔のない場所に術野をつくりながら進む「無腔野鏡視下手術(けもの道手術)」に挑み、縦隔鏡下食道切除術や鏡視下甲状腺手術や乳房切除・腋窩郭清を開発した。

鈴木先生は画像診断にも造詣が深く、腹腔動脈撮影による血管変位や狭窄などから、腫瘍の進展予測を行うことを体得した。これは後に、センチネルリンパ節同定のために開発したCTリンパ管造影を行えば術前転移診断が可能、という発見に大いに役立った。

鈴木先生には孔子の「後生畏可」という言葉を頂いた。荀子の「出藍の誉れ」に由来する徳島大学医学部同窓会「青藍」も同意で、その教えを守って後生を開花させるべく、煽て、叱咤・激励、あの手この手で奮起を図っている。

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