プライマリ・ケア(家庭医療・総合診療)の学術団体である日本プライマリ・ケア連合学会は東日本大震災発生6日後、医師をはじめとする多職種の医療専門職で構成された災害医療支援チームをボランティアで被災地に派遣し、2年間活動を継続した。
プロジェクトの標語として掲げた「Primary Care for All」の末尾に「Team」を加えた頭文字から、PCAT(ピーキャット)と名付けられた医療支援チームは、発足当初から、亜急性期から慢性期にかけての長期支援を目的としていた。
我々は災害医療に関してはまったくの素人だったが、東日本大震災は広範囲に甚大な被害が発生したので、発災直後から「何かできることはないだろうか」と学会のメーリングリスト上で夜通し議論し、「開業医の先生方を助けられないか」「我々は高齢者の在宅医療や多職種連携を得意としているので、それを生かせるのではないか」という方向となった。そして3月13日に学会に東日本大震災支援プロジェクト対策本部を立ち上げ、「Primary Care for All Team」(PCAT)と名付けた。
支援期間については、当初から「今回の震災は被災地があまりに広いので、医療支援の需要と供給のバランスがとれないだろう。そのため医療支援は長期間必要になるだろう」と議論していて、当時の理事長が「中途半端に支援したらかえって被災地の迷惑になる。2年間医療支援を続けると腹をくくろう」と、3月時点で医療支援を2年間行うことを決定した。
17日から先発隊が宮城県気仙沼市に向かい、命からがら逃げた避難所で昼夜を問わず診療されていた開業医の2人の先生に出会った。当初DMATは避難所での診療は行っていなかったので、僕らが被災した先生に代わり避難所で診療したのが最初の支援。
その後、DMATも避難所で医療支援を行うようになったのだが、我々は視点が少し異なっていた。DMATの先生方は感染症や呼吸器疾患の発症を心配していて、もちろんそれは避難所の重要な医療課題だったが、プライマリ・ケア医である我々は、認知症のおじいさんが夜暴れていたり、寝たきりで流動食しか摂れないおばあさんが無理矢理座らされて配給の菓子パンを口にしている状況を改善したかった。そうした環境で、徐々に高齢者や要介護者の体調が悪化し、発災時はトリアージタグが青だった人が救急搬送される姿を目にするようになった。被災地では時間の経過とともに“社会的弱者”が顕在化することを痛感した。
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