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坪井栄孝氏が逝去、官僚との対決姿勢貫く - 「日医総研」創設など日医の政策立案機能強化 [元日本医師会長・元世界医師会長]

No.4791 (2016年02月20日発行) P.10

登録日: 2016-02-20

最終更新日: 2016-11-28

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(概要) 「強い日医」を掲げ、1996年から日本医師会長を4期8年務めた坪井栄孝氏(慈山会医学研究所付属坪井病院名誉理事長・名誉院長)が9日、呼吸不全のため逝去した。86歳。

坪井氏は福島県郡山市出身。1952年日本医大卒。国立がんセンター病院放射線部医長として肺がんの診断技術向上などに努め、77年に郡山市にがん専門病院・坪井病院を開設した。

●「強い日医」目指し自民党との関係構築
医師会活動では、日医常任理事・副会長を経て、96年の日医会長選挙に出馬。東京都医師会長(当時)の福井光壽氏との一騎打ちを制し、第15代日医会長に就任した。公約として掲げたシンクタンク「日医総研」を97年に発足させ、日医の政策研究・立案機能を強化。官僚との対決姿勢を前面に出し、厚生省(現厚労省)の政策に日医の政策を対峙させ、政治に選択させる道を確立しようとした。
「強い日医」をスローガンに政治力強化も図り、自民党内に「21世紀の社会保障制度を考える議員連盟」(初代会長=竹下登元首相)を発足させるなど、自民党有力議員との関係構築に全力を注いだ。
日医総研の研究成果として大きく注目されたのが、2000年8月に公表した「2015年医療のグランドデザイン」。医療・介護費の将来予測を基に、75歳以上を対象とした独立型の高齢者医療制度を創設すべきとした主張は、その後の政府内の議論をリードし、08年施行の後期高齢者医療制度につながった。
00年10月には、武見太郎元日医会長以来日本人として2人目となる世界医師会長(第52代:00~01年)に就任し、活躍の場を世界に広げた。

●小泉内閣誕生で苦戦強いられる
2期目、3期目と勢いを増し、盤石と思われた坪井執行部の基盤が揺らぎ始めるきっかけとなったのが、01年の小泉純一郎内閣の誕生だった。官邸主導で「聖域なき構造改革」を推し進め、経済財政諮問会議と総合規制改革会議を舞台に医療費抑制や株式会社医療参入・混合診療解禁などの規制改革を断行しようとする小泉内閣を前に、坪井執行部は苦戦を強いられ、02年度診療報酬改定では史上初の本体マイナス改定を飲まざるを得なくなった。
4選を果たした02年の会長選挙で予想以上の批判票を浴びた坪井氏は、小泉構造改革との戦いを続けた末、ついに会長職を退くことを決意。03年10月、正式に引退を表明した。引退後も日本医療機能評価機構理事長などとして医療界に影響を及ぼした。
坪井氏の日医会長時代の功績としてもう1つ忘れてはならないのが後進の育成だ。坪井氏が立ち上げた「未来医師会ビジョン委員会」からは医師会活動を担う多くの人材が育ち、同委員会で委員長を経験した中川俊男氏、小森貴氏は、現在も横倉執行部の副会長、常任理事として活躍している。

【記者の眼】「医道士魂」を座右の銘とし、厳しい指導者というイメージが強い坪井元日医会長。実は5代目志ん生の落語が好きで、講演会場のロビーなどでふと出会うと鼻唄まじりに飄々とした調子で話しかけてくる愛らしさも持ち合わせていた。心よりご冥福をお祈りいたします。(Y)

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