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【識者の眼】「医療系学生に生命倫理を語ること」中井祐一郎

No.5032 (2020年10月03日発行) P.64

中井祐一郎 (川崎医科大学産婦人科学1特任准教授)

登録日: 2020-09-23

最終更新日: 2020-09-23

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昨今の私は、生命・医療倫理学に研究の主座を置いている。この領域に手を染めてまだ10年、正規の教育も受けていないので、研究者というには烏滸がましいが、「医学哲学 医学倫理」誌などの学術誌に幾つかの論文を載せて頂き、学会では末席に侍らせて頂いている。

さて、そのような私は本学のみならず、他学の看護系でも生命・医療倫理学の講義を受け持っている。本職の倫理学者の友人たちに聴いてみると、彼らの医療系学生に対する講義は、学問としての系統的なものであるらしい。大学とは「知の集合体」であると考えれば、そこで知を、時には批判的に学ぶ学生に対する敬意として、義務論や帰結主義としての功利主義、そして徳倫理学などを体系的に語ることこそが正当であろう。しかし、専門職大学院制度の出現などもあり、特に教養教育を削減した医療系大学では、最早「知の集合体」としての地位は揺らいでしまった。少々残念ではあるが、専門領域における高等教育機関に過ぎないと、私は開き直っている。

そこで、私は常に「モデル例」の提示から講義を進めている。例えば、「脳死移植患者は、誰かの死を待っていたのではないか?」という問いを投げかける。「脳死者の多くは、天寿を全うした者ではない」、そして「天寿を全うしない死は望ましいのものではない」と語ると、学生の顔には当惑や不満が現れてくる。勿論、移植者団体の主張も提示し、私なりにそれを打破して示してみる。少なくとも、彼らには、医療の場における「唯一の正義」の存在には疑義があることが記憶されるだろう。多彩で多元的な価値観が現れる医療の場において、解を求めて生きてゆくであろう彼・彼女らには必須の知識になる筈だ。

さて、先ほどの問いに対する私なりの解は、「正義の倫理学」では説明が付かなかったとしても、「ケアの倫理学」を準用すれば、「誰かの死を待つことも許容されるのではないか」というものである。

中井祐一郎(川崎医科大学産婦人科学1特任准教授)[女性を診る]

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