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【識者の眼】「仏教の救いは『二の矢を受けない』が原則」田畑正久

No.5008 (2020年04月18日発行) P.64

田畑正久 (佐藤第二病院院長、龍谷大客員教授)

登録日: 2020-04-09

最終更新日: 2020-04-09

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No.5000で「医療と仏教は同じ生老病死の四苦に取り組む」と紹介しました。世界規模の新型コロナウイルスとの戦いに関して仏教はどう対応するのかを考えてみました。

仏教の救いは「二の矢を受けない」が原則です。病気の人(自分を含めて)のことを考えてみて下さい。病気による種々の症状が私を苦しめるでしょう。「癌かも知れない」「良くならない病気ではないか」「死ぬかも知れない」といろいろ悩み、不安になります。いうなれば病気の苦しみと、それに執われる悩みや不安の二重の苦悩を味わいます。現実にコロナ騒動の情報を日々聞くだけでも、対応や将来の見通しに不安を覚えます。

「一の矢(病気の発症など)」は縁次第で何でも起こるのです。仏教は医学・医療と競合して病気を治療するところに関わるのではありません(一部の心の病には仏の智慧で前向きの受けとめができるでしょう)。病気に関しては医療者の治療、指導に「お任せ」です。医療関係者にお任せする時、ストレスも最小限になり、アドレナリンなどの分泌も少なく、自分が持つ免疫力が十二分に発揮されるでしょう。

仏教は病気を救うのではなく病人を丸ごと救うのです。仏教の救いは世間的な救い(経済的、社会的、医学的など)とは質が異なります。あるがままをあるがままに受け取り、与えられた状況を「これが私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏」と仏へお任せして、今、今日を精いっぱい未練なく生き抜くのです(場合によれば、死ぬこともあるでしょう)。

浄土真宗の場合、朝、目が覚めた時、「今日のいのちをいただいた、南無阿弥陀仏」でスタートし、夜、休む時、「今日、私なりに精一杯生きさせていただきました、南無阿弥陀仏」と休んでいくのです。そしてその間(昼間)は、思い出しては南無阿弥陀仏と念仏しなさい、と教えられています。著者は夜、休む(寝る)とき、「これで死ぬんだ、南無阿弥陀仏」と死ぬ練習をしましょうと、お勧めしています。

仏教の基本の「縁起の法」では、死に裏打ちされて「生」がある(生死一如)と教えられています。「我」はない「無我」なのに我ありと思うから死ぬ心配をするのでしょう。仏の智慧で見ていきましょうというのが浄土の教です。仏の智慧をいただくことを、信心をいただくと言います。南無阿弥陀仏と念仏する時、私が仏のはたらきの場(仏の智慧で受けとめる)になるのです。人間として生まれたということは死が必然です。死ぬのが当たり前のところを、今、今日を生かされていることの「有ること難し」を念仏してしっかりと受けとめていきたいものです。

田畑正久(佐藤第二病院院長)[医療と仏教]新型コロナウイルス]

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