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【識者の眼】「延命治療とは? やめたいのにやめられない理由は?」薬師寺泰匡

No.5199 (2023年12月16日発行) P.60

薬師寺泰匡 (薬師寺慈恵病院院長)

登録日: 2023-12-05

最終更新日: 2023-12-05

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ネットニュースでの議論を皮切りに、延命に関する議論が活発化している。「延命治療が保険診療の報酬で払われるという状況はよくない」という旨の言説があったが、「延命」という言葉が包括する意味の幅が広く、医療従事者でも説明に窮する場面があり、なかなか議論がまとまらないでいるようである。

救命の場において、「延命はやめて下さい」と言われることもよく経験する。しかし、そもそも多くの医療行為は延命処置である。歴史上、命を延ばすために医学介入を行ってきたわけで、延命という言葉は肯定的な意味合いで用いられていたこともあった。一般的に延命という言葉が負の印象を持つようになったのは平成になってからではないかと思われるが、これは医学の発達とともに、延命そのものが目的と化す事態が生じてきたことが大きく影響していると考える。

なぜ救命するかといえば、命そのものの価値はもちろんだが、社会復帰や在宅復帰などのゴールをめざしているからであり、いわば生産性の復活をめざしているためである。その目的に向かって治療介入をしてきた結果、意識の改善が望めず、自力での栄養摂取ができない場合でも、また呼吸や心拍出ができない場合ですら生命維持が可能となった。

人間としての生命維持機構が不可逆的に破綻していると思われる状況でも、なんとか生命維持を続けていると、それをしてどうするかという点が曖昧になり、生命維持をするために生命維持をするというトートロジーが成り立つ。こうなると、「無意な延命」という言葉が出てくるのだろう。社会一般ではこの「無意な延命」を単に「延命」と呼んでいるのかと筆者は認識している。

多くの人がそのような状態に陥りたくない、そうなったら治療介入を控えてほしいと思っている一方で、実態としては生命維持を目的とした生命維持が日々行われている。年々増大する医療費を前に、こうした実態が批判されていることは承知しているが、どのように解決できるだろうか。

生命維持の中断を難しくしているのは、可逆性の有無を判断する曖昧さに起因するものと考えられる。医学は科学であるから、絶対ということは言いにくいものである。「もう目を覚ましませんか?」「もう食べられませんか?」「もう回復しませんか?」と問われたとき、「(絶対ではないけど)その可能性が高いと考えます」という曖昧さを残した返答になる。病状説明においては、噓をつくか、誤魔化すか、正直に話して受け入れてもらうかしかない。受け入れてもらえることが望ましいのだが、治る望みが薄いなら治療介入の中断をする、ということが社会に広く受け入れられるには至ってはいない。医療費に対して無頓着はよくないが、独善的になりすぎるのも問題である。

多職種カンファレンスなどを通してチームの総意をつくる努力が我々には求められており、できる限り確度を高めた曖昧さを受け入れて、場合によっては治療介入を控えていくような流れが社会には必要だと考える。暴力的な言説で強行するより、地道な活動が近道ではなかろうか。

薬師寺泰匡(薬師寺慈恵病院院長)[生命維持][治療介入]

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