株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

【識者の眼】「媾疫:第一次大戦を終わらせた動物の性感染症」早川 智

No.5130 (2022年08月20日発行) P.63

早川 智 (日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)

登録日: 2022-07-26

最終更新日: 2022-07-26

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

COVID-19パンデミックがなかなか終息しない。ロシアによるウクライナ侵略も一進一退で解決に至らない。

100年前の第一次世界大戦では、折から世界に広がったスペイン・インフルエンザの流行もあって、さすがのドイツ帝国も継戦能力を失って降伏に至った。ただ、末期にはぼろ負けを重ねた第二次大戦と違って、第一次大戦ではドイツ軍は攻勢を保っていた。革命で帝政ロシアが崩壊して、東部戦線の兵力を西部戦線に振り向けることが可能となったため、1918年5月にはパリまで60kmの地点に到達した。パリ市民は戦火を避けて地方に疎開、英国海外派遣軍も引き上げを検討したが、この年になって参戦した米国海兵隊の奮戦と、伸び切った補給線の消耗、そしてドイツ将兵の厭戦気分によって敗北に至ったとされている。

しかし、実際には人と馬の疫病によるものだった。人を襲ったのは、先述のスペイン・インフルエンザ、そして軍馬を襲ったのが媾疫である。

媾疫の起源ははっきりしないが、おそらく古代から存在し、18世紀以降欧州に広がった。病原体はトリパノソーマ属の原虫Trypanosoma equiperdum Doflein。自然宿主はウマやロバ、ラバなどの奇蹄類で、多くの場合、無症状である。ただ、牝馬では、感染動物の生殖器に浮腫・発赤と白色分泌物の増加がみられ、痒いので尾を振る動作が発情期と似ているので牡馬が交尾を行い、感染が拡大する。大部分が無症候ではあるが慢性的な経過で感染動物は衰弱し、後肢の麻痺などの神経症状と貧血、悪液質をきたして最終的には半数が死に至る。1913年、補体結合検査による感染動物の同定と殺処分が可能になり、北米では徐々に感染動物は減少した。しかし、成果が出るまでには数年を要し、翌年から始まった第一次大戦では最強の参謀本部率いるドイツ帝国陸軍の敗北につながった。

ツェツェバエが媒介するアフリカ睡眠病やサシガメが媒介するシャーガス病などでは、節足動物媒介によって感染するが、媾疫では性行為によって生殖器粘膜のみに感染し、血中から検出されることはない。最近になって遺伝子解析から媾疫トリパノソーマが睡眠病の病原体であるブルーストリパノソーマ(Trypanosoma brucei)の変異型であることが判明した。媾疫トリパノソーマは、細胞内に含まれるキネトプラスト(ミトコンドリア)DNAが変異をきたし、その代謝能が欠損したために元来の宿主であったツェツェバエの体内では生存できず、性感染症という独自の進化ニッチを得たものだったのである。

早川 智(日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)[性感染症]

ご意見・ご感想はこちらより

関連記事・論文

もっと見る

関連物件情報

もっと見る

page top