筆者が、外国で大学院生をしていた頃に読んだ、ラリー・R・チャーチルの『Rationing Health Care in America:Perceptions and Principles of Justice』を久しぶりに読み返した。タイトルを日本語にすると『米国における医療給付:正義についての考え方とその概要』とでもなるだろうか。本書の中で、最も雄弁なリバタリアンとして紹介されているのが、ロバート・ノージックだ。
本書では、ノージックの言葉として、「We are not in the position of children who have been given portions of pie by someone who now makes last minute adjustments to rectify careless cutting. There is no central distribution, no person or group entitled to control all the resources, jointly deciding how they are to be doled out.」を紹介している。
これを、ノージックの思想全体をふまえて意訳しつつ日本語にすると、「私たちは、不揃いなパイを均等に切りそろえるために切り落とした切れ端をもらう子どものような立場にはない。中央による分配はあり得ず、すべての資源の分配を仕切る権利を与えられるに値する人や組織は存在しない。各人の分け前は集合的に決定される。」という意味になる(この手の思想家の言葉を日本語に直訳しても意味不明の文章にしかならず、限られた字数でその意味を伝えるためには語り手の思想全体をふまえて意訳するしかない)。
要するに、ノージックにとって、医療を社会化して給付するということは、分配の過程で生じたパイの切り落とし部分を子どもに与えてやることと同じなのだ。そこには、所得や財産の多寡にかかわらず、医療給付を受けることを権利として認めるという発想が根本的に欠けている。「生存権」が日本国憲法第25条で保障されている日本では、到底受け入れられない思想だ。少なくとも筆者は受け入れない。
そしてもう1つ。ノージックが、いかにもサラッと「集合的に」(jointly)と言う言葉を使っていることにも注意が必要だ。ノージックは、医療を含むすべての資源の分配(=社会の構成員のうち誰がどれだけ受け取るのか)は、特定の誰か(たとえそれが“政府”であっても)が恣意的に決定することが許されるような性質のものではなく、集合的な(きっと神様の)“見えざる手”によって決定されるべきものだと言っているのだ。これが、政府の機能を極小化するリバタリアンの思想だ。要するに、政府は余計な介入をせず、市場に任せておけばそれでよい、というのである。
資源の分配について、中央政府は信用できないという政府の分配機能への懐疑はわかる。だからと言って、政府はいらない、政府を介したサービスの分配もいらない、個人の所得や財産から強制的に徴収する行為は全部悪だ、サービスが必要なら各自が自分の財布で勝手に賄えばよい、ということがまかり通ってよいのか。医療を受けることは国民の権利であり、決して、子どもがパイの切れ端をねだって口を開けて待つのと一緒にしてはいけない。確かに政府の分配機能には民主的統制を及ぼす必要があるが、そのために必要なことは、我々の社会の成熟であって、市場に放り投げれば万事それでよいというのは、リバタリアンの冗談にすぎない。
森井大一(日本医師会総合政策研究機構主席研究員)[リバタリアン]